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コバろぐ

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水戸黄門は諸国漫遊なんてしてない!なのに諸国漫遊するテレビドラマになったワケ


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どうも!コバヤシです。

こんな記事がありまして。

www.nubatamanon.com

歴史の授業で習ったり知ってることが、今では変わっちゃったり違ったりしているよ、という記事なのですが、その中で一般の認識が違うことが箇条書きされています。

今回は、その中のひとつ「水戸黄門は諸国漫遊なんてしてない」について書いてみようと思います。

 

水戸黄門って?

みなさん水戸黄門と聞いたら時代劇を思い出すでしょう。

水戸黄門 サウンドトラック2

日本全国を練り練り歩いて悪い人を懲らしめるジイさん、そんなイメージを持つでしょう。

まずは、水戸黄門という人物を掘り下げてみましょう。

 

水戸黄門と呼ぶわけ

名前についてはみなさん子供の頃に「水戸コーモン。フフフ。コーモン」とか言って同音異義語を連想して笑っていたでしょう。そうでしょう。

水戸黄門というのはもちろん名前ではありません。彼の名前は徳川光圀(とくがわ・みつくに)といいます。

当時は、簡単にいうと身分の高い人については名前を言うのもはばかられる、という態度が道徳としてあったので、一般の人が徳川光圀、と呼ぶわけにはいきません。なので、藩名である水戸、と官位の黄門(光圀は中納言でした。中納言の唐名が黄門といいます)をくっつけて、恐れながら水戸黄門と呼んでいたわけです。

 

血筋

徳川光圀は水戸藩初代藩主徳川頼房の三男として生まれました。頼房は徳川家康の十一男なので、光圀は家康の孫ということになります。

 

ラーメン

光圀は、日本で初めてラーメンを食べた人物としても知られています。

光圀は日本に亡命してきた中国人・朱舜水(しゅ・しゅんすい)を招聘し敬愛していましたが、朱舜水が献上してきた中華麺を使って作り方を教わって自分でうどんを作り、食べていました。薬味はニラとかネギとか。現在でいうラーメンです。

名前はあくまでもうどんと付けたようですが、これをもって光圀は日本で最初にラーメンを食べた人物とされているのですね。

 

光圀の修史事業

さて、本題。

徳川光圀は『大日本史』という歴史書を作ることに生涯情熱を傾けました。

もともと、光圀は若いころは素行が悪いヤツ、町で刀を振り回したり吉原に通ったりしてかなりの不良だったそうです。そのヤンキーが18歳のときに中国の歴史書『史記』の伯夷伝を読んで大いに感銘をうけ、日本にこのような歴史書が無いことを憂い、無いならば自分で作ろう!ということで『大日本史』編纂の事業を始めたということです。

 

大日本史の思想

歴史書にはそれを貫く“思想”というものがあります。どのような考えてその歴史書が書かれているか、ということですね。

光圀の『大日本史』の場合、儒教の宋学をもってその“思想”となっています。敬愛している、ラーメンをくれた朱舜水が儒学の徒だったから、その教え通りにしたわけです。

 

恨み節の学問

ところがこの宋学、ちょっとクセがあります。

宋という国は北方の騎馬民族・女真族が建てた国家、金に常に圧迫されていた国です。圧迫されつつも、軍事的にダメダメながら(岳飛がいたのに!)学問は異様に発達しました。しかし、その学問には金への恨み節が込められているのです。

「アイツらは正当な皇帝であるわが国の帝を敬わないから、ああいう野蛮な民族はやっつけなければならない」と、全然かなわないから学問で鬱憤を晴らしてたわけですよ。

そうして生まれた言葉が「王ヲ尊ビ夷ヲ攘ウ(はらう)」すなわち「尊王攘夷」です。

 

「尊王攘夷」を日本に当てはめる

頭がコテコテの宋学になっている光圀は、自分が見つけた新しい言葉「尊王攘夷」とは何かを日本に当てはめて考えます。そしてひらめきます。

「王とは日本で言うと天皇、夷とは武家すなわち幕府じゃ!」

「我々は権力を持ってるとはいえ、天下は天皇のもんじゃ、天皇の味方が正しいんじゃ天皇の敵は悪じゃ!」

幕府は天皇を人々の視界から消し去ってこそ権力を持てるのに、歴代の権力者はその辺をウマくやってるのに、そんなストレートなことを言うなんて、おじいちゃんの家康が聞いたら顔面真っ青です。

だから幕末、薩長の若い連中は幕府を倒すためのスローガンとしてこの「尊王攘夷」という言葉を使ったんですね。水戸のはねっかえりも使いましたが(このことはまた書きたい)。

 

史料集め

その思想はさておき、光圀が着想し、編纂を進めた日本の紀伝体の歴史書『大日本史』。これを成し遂げるためには日本諸国の史料や伝承を集めなければなりませんので、そのために家臣を日本各地に派遣したそうです。編纂の責任者(編集長みたいなもん)である佐々介三郎(助さんのモデル)や安積覚兵衛(格さんのモデル)もあちこちに行ったそうですよ。

そして、滞在したり通過したりした場所には水戸藩がやって来たという記録が残っていきます。泊まったところなんかには光圀署名の礼状を渡したりしたということです。これらの記録が、のちの水戸黄門諸国漫遊譚の原型になっていきます。

 

講談『水戸黄門漫遊記』

上記のとおり、水戸黄門こと徳川光圀は諸国漫遊などしていないわけですが、名君として知名度は庶民の間で高かったそうです。

そこで、新たな主人公を欲した講談師が水戸光圀に白羽の矢を立てるわけです。講談の主人公は、とにかくまず、庶民のヒーローじゃないとダメですから当然ですね。

 

主人公・水戸黄門

水戸黄門セット

光圀を主人公にしようと決めた講談師が、さてどんな物語にしてやろうかと考えたときに、ひらめいたのが史料集めのときに諸国にばらまかれ、各地に残る光圀の礼状。

あ、黄門さまが実際に各地を歩いたことにしよう。

水戸藩は、江戸から近い御三家だったため、参勤交代がなくて江戸に常に居ました。なので水戸藩士は「将軍に何かあったらすぐに水戸藩主が将軍の代わりを務めるんだ」と勝手に思って、だからわしらは副将軍という考えがあったと言われていました。

あ、天下の副将軍という称号つけちゃえ。

そうやって生まれたのが「天下の副将軍・水戸黄門」というキャラクターです。

また、左右に控える助さん格さんは、滑稽本『東海道中膝栗毛』の弥次喜多を元ネタにコンビとして登場するようになりました。

 

明治になっても衰えなかった背景

江戸幕府が滅亡して徳川氏への評価が庶民の間では低くなっていったのに幕府の人間を主人公とする『水戸黄門漫遊記』が庶民にもてはやされたのは、実際の光圀が『大日本史』編纂の際に見つけた思想、「尊王攘夷」によるでしょう。

さらに時代が進んで天皇制・南朝正閏論に都合のいい教育などが行われるようになると、その元となっている『大日本史』の水戸学の開祖である水戸黄門はさらに人気が上がったわけです。

 

映画化

明治末期から日本でも映画が製作されるようになりますが、その際にすでに話が決まっていて製作しやすいので講談の映画化が活発に行われました。

そして時代劇の定番として『水戸黄門漫遊記』はたびたび映画化され、これまた人気でした。

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 戦後になると、東映がシリーズ映画化しましたが、豪華なキャストも相まって相変わらずの人気でした。

そして、日本にテレビの時代が訪れます。

 

テレビドラマ・水戸黄門

日本でテレビが普及しだすと、まずTBSが映画と同じ月形龍之介を主演にしてテレビドラマ化しました(ブラザーがスポンサー)。

その後、東野英治郎を主演にした『水戸黄門』がテレビ時代劇の定番(スポンサーはナショナル現パナソニック)となり、2011年3月まで続きました。このパナソニックのシリーズから印籠というアイテムが使われるようになり「控え居ろう! この紋所が目に入らぬか」というセリフも生まれました。パターン化によって視聴者が安心して観られるようになり人気が続いたとも言えそうです。

 

最後に

どうでしたか。

水戸黄門は諸国漫遊をしていなかったのに講談が出来て人気者になり、最終的には日本のテレビには欠かせない、水戸黄門が諸国漫遊するドラマとなった過程はこんなカンジです。

面白くないですか、こういうの。

水戸黄門って鎌倉くらいまでしか行ったことないのに諸国漫遊させられて、21世紀になってもまだ日本人に観られてたんですからね。

きっと光圀公もあの世で朱舜水とラーメン食いながらビックリしてたんじゃないですかね。

 ちなみに、ファミコンゲームにもなってます。

水戸黄門

 

ではまた。