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コバろぐ

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関ヶ原の西軍の総大将は石田三成じゃないよ!?

歴史

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どうも!コバヤシです。

関ヶ原の戦いにおける西軍の総大将について、ぼくの周り11人に聴いてみたら「石田三成」と答えたのが3人、「豊臣秀頼」と答えたのが2人、あとは「わからない」とのことでした。

どんだけ興味ないねん!

そこで、関ヶ原の西軍の総大将について書いておこうと思いました。

別に特別なこと書かないんで、「知ってる」とか言う人はブラウザバックかそっ閉じで。

西軍の総大将は毛利輝元

Terumoto Mouri.jpg
By 不明 - 毛利博物館所蔵品。http://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3278354

 

まず最初に書いちゃいましたが、西軍の総大将は西国の雄で五大老のひとり、毛利輝元です。

毛利輝元は三本の矢で有名な毛利元就の息子である毛利隆元の嫡男として生まれ、豊臣政権では五大老になっていました。

そんな輝元が、なぜ西軍の総大将として担がれたのか。

関ヶ原は豊臣家家臣同士の争い

秀頼のための戦い(タテマエ)

徳川家康は、関ヶ原の戦いで石田三成を排除したあと、一気に天下を実質自分のものにしましたし、戦いの前からその準備をしっかりとしてました。が、名目上は「豊臣秀頼さまのため」に石田三成を排除するんだ、というカタチを取っています。

だから、まずその相手である西軍の大将が豊臣秀頼になることはあり得ないですよね。関ヶ原の引き金となった家康の上杉討伐も秀頼の許可、命令によってなされていますし。

石田三成挙兵、でも肩書きがない!

上杉討伐のために家康が会津に向かったあと、石田三成は「秀頼さまのため」家康を討つとして挙兵します。

しかし、三成は五奉行をクビになったあとで肩書きはないのに相手は五大老のひとり、三成がいくら笛を吹いても誰も踊りません。「どうしよ」と考えた三成は家康に対抗するためには同じ五大老を担ぐことにしました。

五大老

ちなみに、五大老とは徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、小早川隆景(のち宇喜多秀家)。

前田利家が生きていて西軍の総大将になっていたら間違いなく西軍が勝ったのでしょうけども、この時期はすでに亡くなっています。家康も目の上のたんこぶである利家が死んでから行動を起こしたんですが。

上杉は会津で討伐を受けている、宇喜多秀家は五大老になったばっかり、となると三成も担ぐには毛利輝元しかいなかったんです。

総大将・毛利輝元

そんなこんなで西軍の総大将となった毛利輝元は、戦場には赴いていません。息子の秀元に兵を預け、参謀として分家の吉川広家を付けています。で、自分は大坂城でヌクヌクとしていたわけです。

もしかして輝元が超ヤル気マンマンで戦場に出てたら関ケ原の結果も変わってたのかもしれませんが、家康はきっとそこまで計算してましたね。「三成は毛利を担ぐだろう、でも毛利はあんまりヤル気がないだろう、広家もそういってるしね、安心安心」って。

そう、毛利の参謀、吉川広家は家康と内通していたのです。

彼は毛利軍を南宮山の頂上に押し上げて自分の軍で通せんぼをして毛利軍が合戦に参加できないようにしました。この辺の広家の心情はひとつの記事にできそうなのでまたの機会に。

最後に

以上、関ヶ原の西軍の総大将は石田三成じゃないというお話でした。

ヒラの豊臣家家臣である石田三成が義憤で挙兵したらあっという間にすりつぶされるので毛利を担いだ、豊臣家家臣同士のケンカ(というふうに家康がもっていった)だから豊臣秀頼も総大将には成り得ない、ということです。

 

ではまた。