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寛政の三奇人のひとり、高山彦九郎のファンキーな生きざま

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みなさんは、高山彦九郎という江戸時代の人物は知ってますでしょうか?

おそらく日本史の教科書には「寛政の三奇人」とかいって林子平、蒲生君平とともにセットで名前だけは載ってるはずです。

彼の生きざまがなかなかファンキーなのでご紹介したいと思いまして。なので書きます。

関西に住んでる人は知ってるかもしんない

本題に入る前に書いておきたいことがあるんですけど。関西に住んでる人はもしかしたら高山彦九郎を見てるかもしれないんです。

京阪電鉄の三条駅のところに土下座してるオッサンの銅像があるんですが、見たことないですか?この人。

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この人こそ、高山彦九郎サンなのです!って台座に思いっきり書いてますがwww

ちなみにこの写真は、ブログ仲間のサキさん(id:masaki709)よりいただきました。

サキさんありがとう!

高山彦九郎って?

高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4年5月8日(1747年6月15日) - 寛政5年6月28日(1793年8月4日))は、江戸時代後期の尊皇思想家である。父は高山良左衛門正教、母はしげ。兄は高山正晴。妻はしも後にさき。子に高山義介ほか娘など。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人(「奇」は「優れた」という意味)。名は正之。

引用元:高山彦九郎 - Wikipedia

そうそう、奇人とか言われてるけど、「奇人」って「変人」とかそういう意味じゃなくって「優れた人」って意味なんですよね。

しかし高山彦九郎も林子平も蒲生君平も、十分変人ですけどね。ちなみに出身は今の群馬県太田市。

高山彦九郎の生きざま

さてこの高山彦九郎、なかなか面白い人生を送ってらっしゃる。面白いといってもケタケタ笑えるような人生ではないのですが、壮絶な悲しみって面白さを含有してたりするじゃないですか。その面白さ。

彦九郎、家を出る

さて彦九郎、次男坊です。当時の次男というのは夢も希望もないのですが衣食住には困らないという立場なのです。家を継ぐというのが当時の武士の最大にしてほぼ唯一の使命であり、その使命は兄が背負ってます。兄に何かあればもちろん自分が背負うことになるのですが、太平な世の中、そうそう何かはありません。でも一応そういう代役としての立場があるから生活は家がさせてくれるんです。

時間はあるけどやるこたない。そんな状態で息をしていた13歳のとき、彦九郎はあるときフト『太平記』を読み始めます。ちなみに、高山彦九郎の高山家の先祖は新田義貞の家臣だとされているので、そんな関係で『太平記』を選んだのかも知れませんね。

ともあれ『太平記』を読んで勤王に目覚めた彦九郎、大いに憤慨します。

「なんで新田義貞公はじめ、天皇を守ろうとした人物が倒れていかなきゃならんのか。足利尊氏め~許さん!」

なんせ『太平記』は南朝寄りの書ですから、素直な人はこうなっちゃうのかも知れませんね。

憤慨し続けた彦九郎は、18歳のとき家族に「足利尊氏をやっつけます」という置手紙を残して京都に向かって旅立ちます。

京都で土下座(拝礼だけど)

さて、「尊氏許すまじ!」と意気込んで京都に乗り込んだ彦九郎、三条大橋まで来たところで地元の人に「あのースミマセン、皇居はどっちの方角にあるんですか?」と聞きます。そして方角を知るや否やいきなり地面にひれ伏し、感激で涙をドバドバ流しながら「草莽の臣、高山彦九郎でございます!」と何度も何度も叫んだそうです。

その姿こそが、今銅像になってるわけですね。

彦九郎はそのとき野次馬に囲まれて(そりゃそうだ)、その中には指差して笑う人も居たそうですが(京都人そういうところある)、感激しまくり状態の彦九郎はまったく気にしてなかったと言います。

尊氏憎し!

さて「尊氏許さん」と言っても当の本人は400年も前に死んでいるわけで、彦九郎は上げた拳を振り下ろすために足利氏の菩提寺、等持院に向かいます。

そしてそこで足利尊氏の墓を見つけると、なんと彦九郎は尊氏の墓を思いっきりムチで何回も打ちました。その数300回。

『太平記』に感化されてる彦九郎からすれば、後醍醐天皇をないがしろにした尊氏は憎んでも憎み切れないし、先祖の大将だった新田義貞を殺したのも尊氏ですから、もうその怒りたるや。

彦九郎は南朝に対する尊氏の罪状をひとつひとつ挙げながらビシビシと300回、怒りに任せて力いっぱい墓を叩いたのです。

全国を尊王行脚、そして天皇に拝謁

尊氏の墓をビシバシ叩いてスッキリした彦九郎はこの後、全国を勤王を説きながら歩き回ります。そして前野良沢や大槻玄沢、林子平や藤田幽谷、そして上杉鷹山など名高い多くの人物と交友してちょっとした有名な志士になっていきました。

そして1871年3月、「奇瑞の亀」(縁起モノ)を献上したとき、光格天皇に拝謁する機会を得ます。

彦九郎、嬉しかったでしょうね。ただの次男坊が天皇に拝謁なんてそうそうないことですし、自分の活動が天皇に認められたってことですから。そのときの気持ちを歌にもしています。

我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ

いきなり切腹

そうして彦九郎が京都で活動している間って、朝廷と幕府が揉めてた時期なんです(尊号一件)。光格天皇が父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたいと言い出して、幕府側(老中松平定信)が「皇位に就いてないからアカン!」とつっぱねて揉めに揉めてるんです。

これを聞いた彦九郎、まっすぐゆえにまた憤慨します。そして、ちょうど尊氏に向けていた怒りと同じくらいの怒りを幕府に感じるわけです。で、薩摩を頼って九州に向かったりして(もしかしたら光格天皇の指示があったかも???)この件で活動し、幕府に大いに警戒されます。

ついに幕府に捕まり、いったんは釈放されましたが幕府からの警戒はますます強まっていく一方。

おそらく窮屈だった彦九郎、いきなり久留米の友人、森嘉膳の家で切腹して果てました。しかしそのときのエピソードもスゴい。

夜に自分の腹に刀を突き刺し、痛みに苦しみながら森嘉膳に自説を語り、駆けつけた幕府の役人には自刃の理由について「気が狂っただけだ」と述べたそうです。そして朝に亡くなりました。享年47歳。

亡くなる前には実家と京都に向かって座りなおして柏手を打ったといい、さらに辞世の句も残しています。

朽ちはてて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを

彦九郎らしい句です。

彦九郎の人物像

いかがですか。彦九郎って真面目で素直でまっすぐで感情豊かなイメージじゃないですか。なかなかファンキーじゃない?

逆に言うと融通がきかないんですね、周りにも自分にも。だからおそらく、最期も「じゃあいいよもういいよ死んでやるよ」って突発的に思っていきなり腹に刀を刺したような、そんな気がします。

しかし、その思いや感情は、吉田松陰などの幕末の志士たちに受け継がれていきます。さらには戦前の修身教育では二宮尊徳、楠木正成で大いに取り上げられた人物となりました。

最後に

高山彦九郎の人生を考えるとき、この人がもし幕末の時期に生きてたらなぁ、といつも思ってしまいます。あと100年弱、遅く生まれてたら大暴れしたんじゃないでしょうか。

あ、でもそうだったら天狗党や天誅組に客分として参加して戦死しちゃってそうです。それも惜しいけど、明治まで生き残って政治家になってうまくやっていくタイプでもないですしね。