イチロー選手のマリナーズ復帰が決まり、メジャーでの通算安打のさらなる積み重ねが期待できるようになりました。イチロー選手は現在メジャーで3073安打で歴代22位ですが、この順位がどこまで上がっていくのか、注目です。
21位が3081安打のアンソン、20位が3110安打のウィンフィールド、そして19位は3115安打のAロッドことアレックス・ロドリゲス。出場機会を考えると、この辺までは射程圏内でしょう(2017年、イチロー選手は50安打)。
で、今回はそんなイチロー選手じゃなく、メジャー通算安打20位のデーブ・ウィンフィールドのことを。
デーブ・ウィンフィールド
デービッド・マーク・ウィンフィールド(David Mark Winfield, 1951年10月3日 - )は、アメリカ合衆国ミネソタ州セントポール出身の元プロ野球選手(右翼手)・指名打者)。
ニックネームは「Winny」。
ウィンフィールドは、パドレス、ヤンキース、エンゼルスなどで活躍した名選手です。コンスタントに3割近くの打率を残し、25本100打点くらいは常に打てるようなバッターでした。
個人的には、1991年にトロント・ブルージェイズに移籍して4番としてチームをワールドチャンピオンに導いたことが印象に残ってます。
3競技4リーグからドラフト指名
ウィンフィールドは非常に運動神経に優れていて、高校時代から野球とバスケットボールで大活躍、高校のときにメジャーリーグのオリオールズからドラフト指名を受けましたがプロ入りせず、地元のミネソタ大学に進学しました。学費が全額支給される特待生としての入学でした。
そして大学では野球でもバスケでも大活躍することになり、MLB(野球)、NBA(バスケ)でのドラフト候補となっていきます。
そして1973年のドラフト。
MLBのサンディエゴ・パドレスから1位指名を受け、さらにNBAのアトランタ・ホークスからも指名され、ABA(NBAと別にあったバスケリーグ)のユタ・スターズからも指名を受けました。
2競技3リーグからのドラフト指名とは、どれだけ才能があるんでしょう!なんて思ってたらプレイしたこともないのにNFL(アメリカンフットボール)のミネソタ・バイキングスからも指名を受けました。プレイしたことないのに!おそらく、地元の一番のスポーツの英雄だったからバイキングスは指名したんでしょう。
ちなみに、4つの異なるリーグからドラフト指名をうけたのは、ほかにジョージ・カーター(NBAで活躍)、ミッキー・マッカーティ(NFLで活躍)しかいません。
アメリカでは学生時に複数のスポーツをやることは珍しいことではありませんが、それらすべてで活躍して評価されるのはやっぱり稀です。
メジャーリーガーとしてのウィンフィールド
結局、ウィンフィールドは野球の道を選びます。それからどのようにメジャーリーガーとして活躍したかを見てみましょう。
サンディエゴ・パドレス時代
パドレスに入団したウィンフィールドは、ドラフトの2週間後にはメジャーデビューを果たします。どんなに期待されてても新人はマイナースタートが常識ですのでかなり話題となったようです。メジャーデビューから2日後には初本塁打も記録しています。この年は56試合に出場し打率.277、3本塁打12打点の成績を残しました。
翌年からはレギュラーとして活躍しました。特に1979年は打率.308、34本塁打、118打点の成績を上げて自身唯一となる打撃タイトル最多打点を獲得し、ゴールドグラブにも選ばれました。
そして1980年オフにフリーエージェントとなり、ニューヨーク・ヤンキースに移籍しますが、そのときの契約は10年2330万ドルで当時で史上最高額でした。
ニューヨーク・ヤンキース時代
破格の契約でヤンキースに移籍したウィンフィールドはコンスタントに活躍します。大きなケガもせず常に.270、25本、80打点ほどを稼ぎ出す選手は貴重ですからね。しかし、契約額に見合った働きではないとファンからブーイングを受けることも多々ありました。ヤンキースファンは厳しい…。
1983年、トロント・ブルージェイズ戦の前のウォーミングアップ中にカモメに邪魔されてそれを追い払おうとボールを投げたら直撃してしまい、そのカモメが死んでしまうということがありました。試合後ウィンフィールドはオンタリオ州警察に動物虐待の容疑で拘束され、保釈金500ドルを支払うことになってしまいました。保釈後の記者会見で「カナダ国民が名もなき一羽の鳥を失ったことに対して深い悲しみと追悼の意を捧げる」と述べています。ちなみに、この事件後ウィンフィールドはトロントのファンからブーイングを浴びるようになります。
1984年はとても好調でシーズン打率.340でした。が、このときもウィンフィールドはヤンキースファンの洗礼を浴びています。というのは、この年レギュラーを獲得したヤンキースの若きスター、ドン・マッティングリーと首位打者争いをしていたからです。ファンはマッティングリーを応援したいがあまり、ウィンフィールドが打席に立つとブーイングを浴びせるようになりました。ちなみにこの年の首位打者は打率.343のマッティングリーでした。
その後、コンスタントに成績を残すもヤンキースはちょうど低迷時代、主軸を打つウィンフィールドが批判されることも多かったようです。
そして1990年、ウィンフィールドはトレードでカリフォルニア・エンゼルスに移籍します。
カリフォルニア・エンゼルス時代
エンゼルスでは2シーズンを過ごすことになりますが、やっぱりウィンフィールドらしい成績をコツコツと上げていく印象です。それでも1試合3本塁打やサイクルヒットを記録するなど、活躍を続けてました。
そして、1991年オフにFAでトロント・ブルージェイズへ。
トロント・ブルージェイズ時代
1992年シーズン、ウィンフィールドは40歳ながらチームの4番として打率.290、26本塁打、108打点を記録してチーム初のリーグ優勝に大きく貢献。
そしてワールドシリーズ、ウィンフィールドは不振にあえいでいましたが、王手をかけた第6戦の延長11回、決勝の2点タイムリーを打ちチームを初のワールドチャンピオンに導きました。
ツインズ~インディアンス時代
ワールドチャンピオンになった1992年オフ、フリーエージェントで故郷のミネソタ・ツインズに移籍、2シーズンを過ごした後、インディアンスに移籍することになります。
大した成績もあげることができずに1995年に引退を決意。マイナー経験がないまま引退した数少ない選手のひとりとなりました。
引退後
ウィンフィールドは2001年に資格を得るとその年に野球殿堂入りを果たします。数多くの球団を渡り歩いた選手なので、レリーフでどの球団の帽子を被るか注目されましたが、ウィンフィールドはパドレスを選び、これでパドレスの球団史上初の殿堂入り選手となりました。
同年、パドレス時代につけていた背番号31が球団の永久欠番となることが決まりました。
最後に
いかがでしょう、デーブ・ウィンフィールド。
派手さはないものの、常にコツコツと数字を残してチームになくてはならない選手として活躍した名選手だと思います。
イチロー選手がウィンフィールドのメジャー通算安打を抜いた時にでも思い出していただけたら嬉しいです。
それにしても、ヤンキースファンひどくね?