ぼくは埼玉に住んでるんですけども、埼玉出身の偉人さんを思い浮かべようと思ってもあまり思い浮かばなかったりします。
いや、いるんですよ。渋沢栄一なんかが。でも、戦国・幕末でパッとする人がいないので、イメージは地味です。
しかし!ひとりものすごい業績を残した人がいます。
塙保己一(はなわ・ほきいち)。今回は彼について書いてみたい。
塙保己一って?
塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。また、一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗る。雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位。
引用元:塙保己一 - Wikipedia
この人の良さそうな顔のオジサンが塙保己一です。
国学者で、日本最大の国書の叢書『群書類従』を編纂した人物として教科書にも載ってます(今も載ってる?)。
『群書類従』を編纂した盲目の国学者
サラッと書いちゃってますしサラッとしか教科書にも載ってませんけども、保己一が『群書類従』の編纂を成し遂げたってのはものすごいことなんですよ。
『群書類従』って?
『群書類従』は何度も書いてますけども保己一が編纂した国書の叢書です。
保己一は、日本を知るためには日本のあらゆる古からの物事を知らなければならないと思っていました。
ところが、それを記してある古書はあちこちにあり、多くは人に気付かれることなく失われていくだろう、そんなふうに思った保己一はそれらを集めて叢書の形で新たに出版して後世に残すことを自分の天命としました。そして幕府や諸大名、寺社や公家の協力を得て古書を収集し編纂していったのです。
そうして出来たのが『群書類従』。666冊もの書物となりました。ちなみに次に企画した『続群書類従』は1185冊で、保己一が死んでからも弟子が遺志を継いでいき、最終的に完結したのは1972年です。たった45年前!
ちなみに、保己一は『群書類従』の版木を20字10行を1ページとし、それを左右合わせて2ページ分で1枚としました。これが現在の400字詰め原稿用紙のもととなっています。
盲目の国学者
保己一は目が見えませんでした。盲目の身で、『群書類従』の編纂という一大事業を成し遂げたんです。
完全に視力を無くしたのは7歳のとき。その後、15歳で学問を志し江戸に出て盲人の職業団体に入門して按摩や針などの修行を始めますが、自分の人生に絶望して自殺しようとしたことさえあります。
そこから一念発起して学問をやるわけですね。本を貸してくれる人のところに飛んで行って本を借り、次は本を読んでくれる人を探し求めました。読んでくれる人にはタダで按摩をやってあげたりしたそうです。本を読んでもらうときは全身を耳のようにして微動だにせず聞いたとも伝わっています。
そうやって盲目のハンデをものともせず保己一は学問を修めていったわけですね。
ヘレン・ケラーと塙保己一
ヘレン・ケラーといえば視覚と聴覚を失ったものの、障害者の教育と福祉の発展に尽くした人物ですが、彼女は母親から「塙保己一を手本としろ」を教えられていたそうです。
昭和12年に来日した際、塙保己一を顕彰する社団法人温故学会を訪問したケラーはこう言っています。
「私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされた育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なことと思います。
先生の手垢の染みたお机と頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心からの尊敬を覚えました。先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」
ヘレン・ケラーの母親も素晴らしいですが、そのころすでにアメリカで塙保己一の名前が知られていたというのがスゴい。
つまりは、保己一の『群書類従』編纂はそれほどの偉業だということです。
最後に
日本の歴史学、国文学の研究に多大なる貢献をしている『群書類従』を編纂したのは盲目の国学者、塙保己一でした。
ひとりの人物の志が、これほどハッキリと大きく残っているのも珍しいことです。きっと保己一の志がそれほどハッキリと大きかったからでしょうね。この世に生を受けたからには、そんな素晴らしい仕事をしてみたいなぁ。