みなさんは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という話をご存知でしょうか。
なんだか道徳的な授業で学校で読んだり、ぼくの場合はテレビでアニメーションで観たような記憶もあったりします。うろ覚えですが。みなさんもそんなカンジじゃないでしょうか。
で、ひっさびさにその『蜘蛛の糸』を読んだんですよ。大人になってから何回目か、ですけど。
そしたら、『蜘蛛の糸』のテーマはもしかしたら一般に言われていることと違うんじゃないかってことが頭によぎってきたので、それについて思いつくままに書いてみることにします。
『蜘蛛の糸』あらすじ
ある日のこと、極楽のお釈迦様が地獄を見ることができる蓮池の淵を散歩中、蓮池から地獄の様子をふと覗いてみました。すると、地獄で罪人たちがもがき苦しんでいるのが見えます。
罪人の中に、カンダタという男がいました。ドラクエのカンダタではありませんよ、そのモデルの男です。
地獄で苦しんでいるこのカンダタ、散々悪事を働いてきましたから地獄で苦しむのは当然ですが、かつて1匹の蜘蛛を踏み殺そうとして思いとどまり助けた過去があります。お釈迦様はそれを知っていて、そんな善いことをしたんだから助けてやろう、と蓮池から蜘蛛の糸をたらしました。
自分に向かって蜘蛛の糸が垂れてくるのを見つけたカンダタは、これで地獄から抜け出せると、その蜘蛛の糸を登っていきます。
一生懸命登り続けるカンダタですが、地獄の底から極楽まで登っていくのは容易ではなく、一休みすることにしました。そして休みながら下をみると、なんと蜘蛛の糸に気付いた他の罪人たちが我も我もと登ってきていました。
カンダタ一人でも心もとない蜘蛛の糸が、たくさんの罪人も登ってきたら切れてしまうと思ったカンダタは叫びます。
「こら罪人ども!この糸は俺のだ!下りろ下りろ!」
その瞬間、蜘蛛の糸はカンダタがぶら下がっているところからプツリと切れ、カンダタたちは地獄に真っ逆さまに逆戻りとなってしまいました。
その様子を見ていたお釈迦様は、悲しそうな表情を浮かべてその場を立ち去りました。
『蜘蛛の糸』の教訓
この『蜘蛛の糸』を読んだら誰でも、カンダタは自分ばっかり助かろうとしたから落とされたんだ、人間はいつまでたっても我執が強くしかもそれを自覚してないのだ、どうしようもないね、と感じると思います。
もしこれを大人が子供に読み聞かせるから、学校で教えて何かを得させようとするなら、そこでしょうね。実際に少なからず絵本にもなってますから、「自分のことばかりかんがえてちゃだめだ」ってことを言いたいんだと思います。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己おれのものだぞ。お前たちは一体誰に尋きいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」
こう言ってしまったカンダタですが、じゃあどう言えばよかったのか、ぼくも子供の頃初めて『蜘蛛の糸』を読んだときは考えました。「この糸は細いからひとりずつあがろう」って言えばいいのか?そして、大人たちに聞いたら正解はきっとこれだったでしょう。
でも、今読んでみて、ぼくがカンダタの立場だったらやっぱり絶対カンダタと同じことを言ってしまうだろうな、と思いましたよ。
自分が一匹の蜘蛛を助けたから自分に向かって垂れてきた蜘蛛の糸(これを自覚している描写がないんですけど)、この糸は俺のであってお前らのものではない、だからお前らは登るな!切れるだろ!バカ!って思うでしょう。
ああ、人間ってどうしようもない。あ、やっぱりこの『蜘蛛の糸』の教訓はそこか。
もしかしたら助ける気ないでしょ?
さて、お約束どおりの教訓を『蜘蛛の糸』から取り出したんですけども、なんか釈然としません。
というのは、ぼくには芥川がカンダタを否定しているようには思えない。
芥川はそんな教訓めいたことを書きたいわけではなく、ただただ無様な人間を見ているお釈迦様を書きたいだけなんじゃないか。
そうじゃないと、蜘蛛を一匹踏まなかったってだけでカンダタを助けてやろうといいつつ、それに切れやすい蜘蛛の糸を用いる理由が思いつきません。本気で助けるならば、使うのは蜘蛛の糸じゃないでしょう。お釈迦様は、絶対蜘蛛の糸が切れると思っていたし、それによってカンダタがまた地獄に堕ちていくのもわかってたのです。
芥川の遺稿である『侏儒の言葉』なんかを読むと、そんな風に思ってしまうのです。
神は、見ておられます。見ておられますが、手助けはしません。ただ、見ておられます。
『蜘蛛の糸』から教訓を取り出すとしたら、これじゃない?
最後に
ヒマを持て余した、神々の、遊び。
それが、『蜘蛛の糸』。知らんけど。