忠臣・山中鹿之助
さて、みなさんは山中鹿之助という戦国武将をご存知でしょうか?
毛利にやられちゃた主家である尼子氏の復興を目指し、月に向かって「我に七難八苦を与えたまえ」と言ったという、それに耐えてはねかえして主家尼子氏を再興させるぜ!と願った尼子氏の忠臣です。
銅像だって月に願う姿となっています。
(画像掲載元:File:Yamanaka Shikanosuke statue.JPG - Wikimedia Commons)
鹿之助の主家・尼子氏は出雲を中心に中国地方に覇を唱えた堂々たる大名でしたが、毛利元就の謀略にハマって忠臣を謀反人として討ち取ったりしちゃって内部崩壊を繰り返しついには毛利に踏みつぶされちゃった大名家で、鹿之助はその毛利への恨みを生き甲斐に主家再興のために縦横無尽に動き回った人物です。
その忠義は日本人の胸を打ち大いにウケて、江戸時代には「忠臣蔵」「曽我兄弟」と並ぶ大人気の講釈師のネタでしたし、明治になってからも楠木正成と並ぶ忠義の士として道徳の授業には必ず載るほどの有名人となりました。
それはいいんですけども、名前がなかなか面白いと思いません?
山の中の鹿だなんて。どうやら本名っぽいんですけども。ちなみに、鹿之助は通称で名前は幸盛ですが。通称を名字に寄せたのか?みたいな。
ああ、さらにちなみに鹿之助は鹿之介とも書いたりします。
尼子十勇士の名前
ところで、尼子氏の再興を願った家臣は山中鹿之助だけではありません。いつからか、彼らは「尼子十勇士」とくくられて語られるようになりました。なんでも、尼子晴久が部下の中から選りすぐりの勇者を10人選んだとか。その割には文献によってメンバーが若干違ったりして10人以上いるんですけども。
まぁ、人数はいいんです。問題は彼らの名前です。山中鹿之助どころじゃないダジャレの名前ばかりなんです。
- 安宅庵之助(あたかいおりのすけ)
- 川岸柳之助(かわぎしやなぎのすけ)
- 植田早苗之助(うえださなえのすけ)
- 早川鮎之助(はやかわあゆのすけ)
- 深田泥之助(ふかだどろのすけ)
- 横道兵庫之助(よこみちひょうごのすけ)
- 薮中茨之助(やぶなかいばらのすけ)
- 尤道理之助(もっともどうりのすけ)
- 小倉鼠之助(こくらねずみのすけ)
- 荒波碇之助(あらなみいかりのすけ)
- 大谷古猪之助(おおたにふるいのすけ)
- 破骨障子之助(やぶれぼねしょうじのすけ)
- 阿波鳴戸之助(あわなるとのすけ)
- 寺元生死之助(てらもとせいしのすけ)
なんでしょう、ダジャレにしても全部最後「~之助」とまとめるなどずいぶん雑ですね。なんか名字から連想するものを名前にして「之助」でくくるという法則でもあるんでしょうか。それにしては尤とか破骨とかいう名字はなさそうですけどもね。
しかし、今調べたら尤という名字はあるっぽいです。尤道理之助の子孫かもとか書かれています。尤も、「ゆう」と読むみたいなんですが。
尤さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索No.1/名字由来net|日本人の苗字・姓氏99%を掲載!!
尤さんの話ばかりで恐縮ですが、多久和城を毛利に攻められた際に守るはずの道理之助が戦いもせずに城から脱出し敵味方に笑われたという記録は残ってますから、確実に実在したっぽいです。
最後に
名前はどうであれ、彼らが主家再興のために奮闘したのは事実です。
尼子勝久が上月城を攻められ切腹し主家再興の夢が絶たれた際、吉川元春と対面し刺し違えるために降伏した山中鹿之助がその宿願を隠せずにソワソワしてたから護送の道中で討ち殺されてしまうほど、彼らの宿願はすさまじかったのです。
その忠義の志を思うと、今でも清々しい気分になりますよね。
名前はどうあれ。