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コバろぐ

社会人ブロガー頑張る

陸奥宗光の奥さん、陸奥亮子さんがいつみても美しい件


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時代も幕末になると、写真というものも日本に入ってきて、さまざまな人たちが写真を撮ってます。坂本龍馬なんかはナルシストな面も大いに持ってる人だったから何枚も写真に残ってますね。

逆に、西郷隆盛は「写ると魂が抜かれる」なんてことを割と本気で信じてて嫌がったとかいいます(俗説。ホントのところは知りません)。

そして、彼ら偉人たちの奥様や娘さんたちも特に明治に入ると写真を撮ってたりしますが、その中でもひときわその美貌に惚れ惚れする方がいらっしゃいます。

それが、今回ご紹介する陸奥亮子さんですハァハァ。

陸奥亮子の生涯

陸奥亮子は、旗本・金田蔀の長女として江戸で生まれています。

母はどうやら妾だったらしく、少女のころに新橋の柏屋に奉公に出て芸者の修行をしながら下働きをし、17歳のときに芸妓となり、小鈴(小兼)の名で客前に出ました。ちなみに亮子は新橋で一、二を争う名妓となり、板垣退助のお気に入りの小清とともに新橋の双美人ともよばれてました。

明治5(1872)年2月、陸奥宗光の先妻蓮子が亡くなるとその年の5月に陸奥宗光の後妻となりました。

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(画像掲載元:陸奥宗光 - Wikipedia

明治11(1878)年、政府転覆運動に荷担した疑いで宗光が禁固5年の刑に処せられ収監されると、獄中の宗光を手紙のやり取りで支えながら、先妻の子である長男広吉と次男潤吉、それと実子の清子(さやこ)をしっかり育てました。

明治15(1882)年、宗光が特赦によって出獄し、翌明治16(1883)年から伊藤博文の勧めでヨーロッパに留学、明治19(1886)年、政府に出仕すると亮子は社交界デビュー。すぐにその世界で話題となり、伯爵戸田氏共の妻で岩倉具視の娘極子とともに「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになりました。

明治21(1888)年になると宗光が駐米公使となり亮子もともに渡米、その美貌と話術で第一等の貴婦人と謳われ「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と称されました。

日本に帰国後は伊藤博文の妻梅子に頼まれて慈恵医院の設立に協力などをして日本赤十字社の正社員にもなったりしていますが、明治33(1900)年に亡くなりました。享年43歳。

参考ページ

陸奥亮子 鹿鳴館の華・社交界の華と称された明治時代の美女 - 幕末維新

陸奥亮子の写真

いかがでしたか、陸奥宗光の妻・陸奥亮子の生涯は。なに?そんなの興味ない?さっさと写真を見せろ?アイキャッチで見たからもういい?

じゃあ、どうぞ。

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(画像掲載元:陸奥亮子 - Wikipedia

まぁ、有名な写真ですから知っている方も多いでしょうけど、これが陸奥亮子さんですハァハァ。

新橋でも、鹿鳴館でも、アメリカでも「華」と呼ばれたのも納得でしょうハァハァ。

その日のコンディションや、うつりの良し悪しもあるでしょうけど、かなり美しいと思って差し支えないんじゃないでしょうかハァハァ。

ハァハァはさておき、ぼくはこの写真の亮子さんのご尊顔、かなり好きです、ハイ。

最後に

亮子さん、何度見ても美しいですね。他にも桂小五郎の奥さんの松子さんやら坂本龍馬の相方のおりょうさんなど色々写真を残されている幕末明治の女性は多いですけど、誰を何回みてもダントツの美しさです。

次点は楠本高子さん(楠本イネの娘。つまりシーボルトの孫)かなぁ。こんなふうに順位付けてたら怒られるなぁ。

 

ではまた。