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今さら聞けない?『忠臣蔵(ちゅうしんぐら)』初心者のためのザックリとしたあらすじ

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日本の年末の風物詩といってもいい『忠臣蔵』。

年末になると割としょっちゅうドラマ化されたりして放送されていますが、『忠臣蔵』って何なん?という人も最近多いような気がします。

そこでまったく『忠臣蔵』を知らない人のためにザックリとあらすじを書いてみようと思います。『忠臣蔵』初心者対象のエントリーです。

『忠臣蔵』って?

忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、 人形浄瑠璃(文楽)および歌舞伎の演目のひとつで、1748年に大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』の通称。また歌舞伎や演劇・映画の分野で、江戸時代元禄期に起きた赤穂事件を基にした創作作品。

引用元:忠臣蔵 - Wikipedia

赤穂事件というのは、主君・浅野内匠頭長矩を切腹させられたことに納得がいかない旧臣たちが家老・大石内蔵助良雄を中心に堂々と仇である吉良上野介義央邸に討ち入って見事仇討ちを達成したという事件です。

江戸の庶民は太平の世に憂いていて、この事件を胸がスカッとする美談としてとらえてたようです。だから浄瑠璃や歌舞伎の演目になって大人気となったんですね。その人気は、客の入りが悪い時でもこれを上演すれば必ず当たったと言われるほどのものでした。

忠臣蔵あらすじ

プロローグ

時は今から300年ほど前の江戸時代、犬公方綱吉将軍の時代。舞台は江戸。

赤穂藩主・浅野内匠頭は天皇の勅使を江戸城にお迎えする儀式の準備という大役を仰せつかってました(2回目)。浅野内匠頭は若いので、古いしきたりとかを良く知ってる先生として高家肝煎・吉良上野介が付いていました。

その準備の間、吉良上野介は浅野内匠頭に色々と意地悪をしたということになっています。準備するものの仕様が変更になったとか追加になったとか言われて、そのたびに赤穂藩士は駆けずり回って何とか準備するとかいった有様。

「何やねんあのジジイ…」

そんなことを繰り返しているうちに浅野内匠頭及び藩士たちは吉良上野介に対する鬱憤と恨みをためていきます。

松の廊下

1701年3月14日、ついに浅野くんは爆発します。有名な「殿中でござる!」の場面ですね。

江戸城本丸の松の廊下で、浅野内匠頭は吉良上野介に斬りかかります。

「あの若造は何にも知らん。賄賂も少ない。なんと世間知らずの坊ちゃん大名やなぁフフフフ」とか吉良さんが談笑しているのを聞いちゃった浅野くん、プッチーンとキレちゃいます。

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「何やこらジジイもう勘弁ならんわ。そこでじっとしとけ斬ったらああああああ!!!」

はい、ジ・エンド。

大事な儀式の最中に、江戸城の中で、刀を抜いた。この事実をもって浅野くんは即日切腹を言い渡されます。これは異例でした。ろくに取り調べもされず、大名なのに庭先で切腹させられるなんて通常ならあり得ないことです。

しかしそのあり得ない状態で、浅野くんは他界しちゃいました。

お家断絶

藩主が切腹させられた赤穂藩には「お家断絶」の処分が下されました。これを受けて赤穂の城では藩士たちが激論。

「納得いくかぁ!殿は殺され、お家が亡くなる?上等やこうなったら幕府相手に戦争じゃ!!!」

「それは上策ではない。ここは大人しく城を明け渡してお家再興を計ろう」

結局、家老の大石内蔵助が籠城しようとした藩士たちの「血判書」を受け取り、お家再興を目指し、それが成就しなかったら徹底抗戦するということでひとまず城を明け渡しました。その上で、浅野くんの弟である浅野大学長広を擁立して浅野家再興を目指します。

ところが、幕府はそのメンツのために浅野家を簡単に再興させるわけにはいきません。その浅野大学くんを広島藩のお預かり処分としてしまいます。これにより、浅野家のお家再興の道はどこにもない状態になりました。

「ぐぬぬぬぬ!」特に徹底抗戦派だった藩士たちは大激怒です。

仇討ち!

ことここに至って大石くんは吉良のジジイを討つことを決意します。そして同士たちに江戸に集合するよう指示を出します。

「やるやで~江戸に来てや~」

しかし大石くんは江戸に来てからボケーっとして昼間っから酒を飲んでたりして旧藩士から「昼行燈」とか呼ばれちゃったりしてます。昼に行燈を灯しても意味がない=役に立たないという意味です。

「あのヤロー全然役に立たへんやんか!もう俺らだけでやっちまおうぜ!」

大石くんはそんな彼らを抑え(このへん見ると優秀な人だなと思う)、裏で吉良邸の探索、吉良ジジイの予定や行動を探っていき、ついに絶対に家にいる日時を突き止めます。

そして人員配置や武器や所持品の手配、合言葉の準備などを整え、ついに1702年12月15日未明、雪が舞う中、仇討ちを誓う47人の赤穂浪士たちが吉良邸に討ち入りました。

実は吉良側では討ち入りを予測して助っ人浪人なんかを雇ってましたが、寝起きで体が動かない寒い早朝を狙われたことや、徹底した探索で赤穂浪士側がうまく部屋に閉じ込めたりしたことであまり機能しなかったみたいですね。

「なんやアイツら!役に立たなさすぎ!ヤバい助けてー」

そんな吉良ジジイの思いも虚しく、炭小屋に隠れてるところを見つかってクビを獲られちゃいました。

エピローグ

忠義を貫いて仇を討ったということで、引き上げる赤穂浪士たちに江戸の庶民は拍手喝采(実は吉良自身と同じく、みんな知ってたらしい。隣の家とかは櫓を組んで見物とかしてたらしい)でしたが、浪士たちは幕府に自首しました。

「仇を討ったのは間違ってへんけど、江戸を騒がせたのはスンマセン」

その態度も清々しいし、武士として仇討ちは天晴れだし、浅野くんを即日切腹させちゃったうしろめたさもあるしで幕府では色んな意見が出てきたようですが、やっぱり幕府を恐れぬけしからん所業だ、ということで1703年2月3日に全員切腹の命が下されました。

素直にみんな腹を切ったということで、庶民はまた拍手喝采、そうしてこの赤穂事件は後世まで残る美談となったのです。

実際はどうだったか

まぁこれは、庶民がすきな赤穂浪士側に立った『忠臣蔵』のお話で、実際はどうだったかはまた別の話。

浅野内匠頭は癇癪持ちの若造でしかも尿道結石を患っていていつもイライラしていたらしいし、吉良上野介は地元では今でも名君として称えられています。

逆に、赤穂の塩田の技術を吉良上野介が浅野内匠頭に聞いたら「誰が教えるかバーカジジイ氏ね」と言ったとかいう話も一部ではあります(きっとそこまで言ってない)。

もしかしたらムカムカしていた浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけたのは「むしゃくしゃしてやった。誰でも良かった」ってヤツかも知れませんし、「アイツやべえよあぶねえよ」って即日切腹になったのかもしれませんしね。

最後に

初めの刃傷事件があったのが江戸城内ということで、バツの悪い幕府のメンツのために残ってる史料も何らかの意図が入ってるでしょうから、この一連の赤穂事件ってホントのことは掴みづらいところがありますね。

そこに色んな解釈や意図が入り込む余地があり、色んなふうに書けるのも『忠臣蔵』がずっと書き続けられ演じ続けられている要因のひとつなんでしょう。