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来島又兵衛みたいなオッサンになりたいようななりたくないような

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来島又兵衛(きじま・またべえ)、という人物をご存知でしょうか。幕末の長州藩において数々の藩の要職についた人物です。

そう聞くと「ああ、優れた人物なんだな」と思うでしょうけども、なかなか一筋縄ではいかない人物だったようです(優れているのは間違いないんですけども)。

来島又兵衛とは

では、来島又兵衛とはどんな人物だったんでしょうか。

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(画像掲載元:来島又兵衛と禁門の変(蛤御門の変) - 歴史から学ぶ大和魂

来島 又兵衛(きじま またべえ)は、幕末の長州藩士である。尊皇攘夷派。遊撃隊総督。幼名は亀之進。初名は光次郎。諱は政久。

引用元:来島又兵衛 - Wikipedia

幕末の長州藩といえば、高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞など、松下村塾で吉田松陰に影響を受けた若者たちが中心の藩、というイメージがあると思いますが、来島又兵衛は彼らよりもかなり年上(例えば高杉晋作とは22歳差)です。ヘタしたら親子です。

しかし、もしかしたら彼らよりも過激だったと言っていいかもしれません。

そして、その過激な性格と行動のために禁門の変(蛤御門の変)で48歳で戦死してしまいました。

愛すべき来島又兵衛

さて、一言で「過激」と書いてしまいましたが、又兵衛のその過激さは素直さからくるもので、考えてみるとなかなか愛すべき人物と言っていいと思います。

オッサンのクセに。

そう、来島又兵衛は愛すべきオッサンなのです。

その愛すべきオッサンっぷりをご紹介しましょう。

①売られたケンカは買う

1862年、長州藩と薩摩藩の対立が芽吹き始めたころ、関係修復のため長州の周布政之助が呼びかけて薩摩藩士との酒宴が設けられ、又兵衛もこれに参加しました。薩摩からは大久保一蔵(大久保利通)、堀次郎(伊地知貞馨)らが出席。

酔いが回ったころ堀次郎が周布政之助を挑発、酔っていた周布政之助は「剣舞見せるわ」といって刀を振り回し始めました。

普通の大人なら「おいやめろ、相手も酔ってるんだ、刀をしまえ」くらい言っても良さそうなもんですが、又兵衛は違います。「おのれ薩摩めバカにしおって」と刀に手をかけて場は乱闘寸前になりました。

このときは大久保一蔵が機転を利かせて事なきを得たわけですが、本来なら又兵衛も政之助を止めるべき場面です。しかし愛すべき又兵衛は「あー!バカにした!政之助をバカにした!長州をバカにした!」と頭に血を昇らせちゃうんです。愛すべきです、ええ。

②若者の真似もしちゃう

1863年、長州は京都で幅をきかせていました。禁裏守衛も長州が担当し、又兵衛もそのために上洛。しかし八月十八日の政変で薩摩と会津により長州は京都を追われます。

長州に戻った又兵衛、高杉晋作が奇兵隊なんてものを組織してるのを目にします。奇兵隊は、庶民も戦闘員として組織して一丸となって戦おうという、当時としては無茶な行動原理を持った隊でした。

普通の大人なら「おい何やってんだバカ。庶民が戦争で役に立つわけないだろ。第一、これじゃあ武士の面目もたたないじゃないか」くらい言っても良さそうなもんですが、又兵衛は違います。「あっ、なにそれいいんじゃないの。俺もやる」とか言って町民とか農民を集めて遊撃隊を組織して自らが総督に就きました。

若者が新しいことを始めたとき、我々オッサンは否定的になりがちです。冒険できない。しかし愛すべき又兵衛は「それいい無茶苦茶いい俺もやる」とたとえ相手が若者でもいいことをしたら真似しちゃうんです。愛すべきです、ええ。

③無計画に動く

京都から追い落とされた長州藩、高杉晋作などは「ここは仕方ない、じっと我慢して富国強兵しよう」となりました。血気盛んな若者ですら我慢してそう言うのに、もっと血気盛んになっちゃってるオッサンである又兵衛は聞きません。「奇兵隊も我が遊撃隊もあるやんけ!京都に進出して天皇サンに陳情しようや!」とか言い出しました。

そして「上洛を命令してくれないなら脱藩する!」とか言って本当に京都に行ってしまいます。そして、京都に潜入した又兵衛は薩摩藩の島津久光を暗殺しようとかいう無茶な計画を立てたりします。このときは藩が「ヤバい!」と言って帰国命令を出したため又兵衛は長州に戻りました。

一旦は脱藩の罪で投獄された又兵衛ですが、その後赦され1864年、今度は藩命で京都に向かいます。そして今度は会津藩主で京都守護職の松平容保の襲撃を計画しましたが警備が厳重すぎて断念しています。

スパイやれって言われたら目立たないようにするじゃないですか。しかし愛すべき又兵衛は「いや、近くにいるから」と敵をやっつけようとしちゃうんです。愛すべきです、ええ。

④無茶をする

松平容保襲撃を断念した又兵衛は一旦萩に戻りましたが、ずっと「やっぱり京都に進発すべきだ」と言い続けていて、周布政之助などに「まだ早い」と押さえられていた状態でした。しかし、そう言い続けているところに池田屋の変の報が入り、ここで長州藩は一気に進発論に傾きます。又兵衛は藩から出陣の命令を受け、今度は遊撃隊を率い堂々を京都に向け出発しました。

京都について天龍寺に陣取った又兵衛は、徳川慶喜の再三の撤兵依頼をすべて拒否。若い久坂玄瑞ですら「藩の主力が到着するまで待とう」と言うのに「卑怯者は儂の戦いを見物してろ」と進撃を開始してしまいます。

このとき幕府側は長州の10倍の兵力で御所を守っていましたから、普通は主力を待つじゃないですか。しかし愛すべき又兵衛は「いや、もう我慢してる場合じゃないから」と出撃しちゃうんです。愛すべきです、ええ。

⑤奥様に頭が上がらない

最終的にこの禁門の変で又兵衛は西郷隆盛率いる薩摩藩銃撃隊の川路利良の射撃で胸を撃ち抜かれて戦死してしまうわけですが、京都に出発する前に奥様に怒られていたそうです。

「アンタはいくつなの。いつまでもドンパチドンパチしたがって。もう落ち着いてください」とたしなめられた又兵衛は「今回だけだから。今回だけだから。今度戻ったら大人しくするから」と言って出発したそうです。

まぁこれは『竜馬がゆく』で知った逸話なので、司馬遼太郎の創作かもしれませんが。

もう40も半ばをすぎれば家族のためだけに色々我慢して生きるのがオッサンだったりするじゃないですか。しかし愛すべき又兵衛は「いやでも我らは悪くないし。それを正しに行くだけだし」と出撃しちゃうんです。愛すべきです、ええ。

来島又兵衛の是非

どうですか来島又兵衛。

もう45歳もすぎたオッサンが、まるで少年のようじゃないですか。

いや、男ってのはいつまでも子供で、こんな少年のような性根は多少なりともいくつになっても持っているもんですけども、それでも色んな立場やしがらみにまとわりつかれて我慢して社会に溶け込んで生きているんですよ。実際、同じ長州藩の周布政之助なんかは元々血の気の多いオッサンですけども、長州藩や高杉などの若者のために我慢して抑える側に回ってるんです。

でも又兵衛は自分に素直です。自分が思った通りに行動し、自分が許せないものには許せないと言う。

だからいつのまにか又兵衛と同年代になってしまったぼくなんかは心底又兵衛が羨ましい。羨ましいけども、カミさんや子供たちのことを考えるとこんな風には生きられないな、とも思う。自分で自分に課した責任ってのを考えると、そう軽率には動けないのです。

だから、又兵衛のような人物を見るとき、どうしても羨望と憎悪が入り混じった目線になってしまいます。

ぼくらオッサンは、又兵衛のように生きて自分を誇示したい半面、又兵衛のような生き方を選ばないと自戒することで世間と調和してます。そして、どちらも男子のダンディズムだと理解しているから、又兵衛のようになりたくもあり、なりたくもないのです。

最後に

しかしまぁ、自分の上司にこんな人がいたら「うわぁ勘弁して」としか思わないでしょうね。いやでしょう、こんな無鉄砲な上司。

ああそうか、いっしょに仕事できないけど、友達だったらいいのかな。確かに、来島又兵衛といっしょに飲んでみたい気はしますもんね。