ゲームの話なんですけど、今はスマホで基本無料とかで試せるからいいですよねぇ。自分に合わなかったら即刻アンインストールして経済的なダメージはありません。
クソゲーという言葉があります。
せっかく買ったのにめっちゃくちゃつまんないゲームのことです。なけなしのお小遣いをはたいてやっと買ったゲームがクソだったときの悲しさやるせなさ怒り。ぼくらの世代はそんな感情を常に心に渦巻かせていたのです。スマホゲームのようなお手軽さはそこにはありませんでした。
クソゲー無理ゲーばっかりだった
こんな記事を読みました。
『ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ』以降、レトロゲーム機の復刻が続いています。そこでこれを書いてる人も思い出したようです。クソゲーを掴んだ日々を。
ここには、その苦い思い出をもって「美化された思い出のレトロゲームブームはどうなん?」と書かれていました。
我々、中年は幼い頃からゲームを楽しみ、大人になった。しかし、本当に楽しい思い出だけだろうか?否。正直なところ、嫌な思い出もたくさんではないか。そして、この嫌な思い出によって、我々、中年は社会の現実を知ったのではないか。
確かに。その通り。「社会の現実を知った」とは大げさだとしても、自分だけではどうにもならないことを知ったってのは間違いないです。どうしようもないクソゲー、難しすぎる無理ゲーに理不尽さを感じ、また、せっかく買ったのに堪能できないほどカンタンなゲームもあったと書いてある。
しかし、だからってそれらが復刻して手放しに喜んだらアカンの?
クソゲーや無理ゲーも楽しんでいた
だって、楽しくなかったです?クソゲーでゲンナリして無理ゲーで怒りに狂ってても、どっかで楽しんでなかったですか?
「コロコロコミック」での煽りにのって買ったハドソン(当時)の「バンゲリングベイ」は、内容が小学生向けではなく、しかもいまいち面白さがわからなかった。アイレムの「スペランカー」には、大の大人の弱さを学んだ。スーパーマリオがあれだけジャンプしているのにも関わらず、僅かな落下で死んでしまうとは。タイトーの「たけしの挑戦状」からは、理不尽を超えた理不尽を学んだ。
確かに、上記3つはぼくらが酒を飲みながらファミコンを語るときに頻繁に出てくるゲームでしょう。
でも『バンゲリングベイ』だって2Pの誘導ミサイルで墜落するまでにどこまでダメージを増やせるか競ったりして遊んだし、『スペランカー』は遊べば遊ぶほど死ぬ理不尽さがないのに感心してたし、『たけしの挑戦状』については「ゲームを超越した何か」として楽しんでいた(が、このタイトルの場合はゲームとして見たら完全にクソゲー認定でいいと思う。ゲームではないですから。)。
つまり、ぼくらは「なけなしのお小遣いで買ったんだから何がなんでも楽しんでやろう」というと思って積極的にゲームと関わってたんですよね。
そういう感覚が、どうも感じられない。
あ、ちなみに『バンゲリングベイ』についてはこちらも是非。
クソゲーをいかに掴まないか、もゲーム
良いゲームも悪いゲームも遊びまくって遊びまくって、今度はぼくらはクソゲーをいかに掴まないか、というのも楽しんでたような気がします。
自分のゲームをみる目は確かなのかどうか、他人の目と比べてどうか、なんてことを考えながら自分でゲームを買い、やっぱりクソゲーだったりして「ゲエエエエエムオオオオオオバアアアアアアア!!!」なんて叫んだり、そうやって叫んでるやつを見て楽しんだりして。
中学生くらいになると、どうもクソゲーっぽいけど試してみたいと思うゲームは、ちょっとお金持ちの家の友だちをそそのかして買わせる、みたいなことも楽しんでました。誰がアイツに買わせるか、みたいな。
そういうゲームを取り巻くすべてが、クソゲーを自分が掴むか掴まないかも、“ゲーム”でした。そしてその“ゲーム”を、間違いなくぼくらは楽しんでいた。
そういう楽しみかたを、したことがないのかしら。
というわけで、記憶は嘘をつく。痛い体験まで含めて、思い出すべきだ。復刻版マシンを欲しいと言っている、同世代の君、本当に楽しい思い出だらけだったかい?
ぼくらは、「痛い体験まで含めて、思い出」して復刻を喜んでいます。
「記憶は嘘をつく」って、ノスタルジーで美化された思い出は、悪いものなのかい?もしかして、ゲームするときってひとりぼっちだったんじゃないの?
最後に
そもそも、復刻のレトロゲーム機のターゲットは、そういった思い出を持っててカネもある程度持ってるぼくらなんですよ。
それなのに、「クソゲー」と「無理ゲー」に学んだのが理不尽さだけなやつにとやかく言われたくないなぁ、なんて思っちゃいました。まぁ、狙ってるんでしょうけども。