のちのナムコとなる中村製作所の創業者で、バンダイナムコエンターテインメントの最高顧問である中村雅哉さんが亡くなりました。91歳でした。
バンダイナムコエンターテインメントより届いた「訃報」です。
http://www.bandainamco.co.jp/cgi-bin/releases/index.cgi/file/view/5616?entry_id=5145
ゲーム好きとして、どうにも悲しい。
ナムコという会社
中村さんが設立した中村製作所は、横浜の百貨店松屋の屋上に2台の回転木馬を設置したところからその事業を始めました。そのときに「子供の遊び場のない百貨店なんて99貨店だ!」と言ったとか言わなかったとか。
そしてアミューズメント施設やテーマパークを運営しつつ、ビデオゲーム事業に乗り出したことで日本のゲームの歴史は変わったのです。そこからの快進撃はみなさん知っているでしょう。
「世界一売れたアーケードゲーム機」としてギネス認定されている『パックマン』を筆頭に、数々の傑作ゲームを世に送り出し続けてくれました。
のちにバンダイと統合。エンターテインメント企業として大きくなって現在に至ります。この経営統合も、中村さんの思いがあってのことだったんでしょうか。
ぼくとナムコ
まだファミコンが世に出る前。
ぼくの家から自転車で10分ほどのところにナムコ直営のゲームセンターがありました。普段は近所の駄菓子屋でゲームをしていたんですが、お小遣いをもらった日なんかはそのナムコのゲームセンターへ自転車を走らせたものです。
『マッピー』『ゼビウス』『パックランド』『ドルアーガの塔』『ディグダグ』『ギャラガ』『ポールポジション』などをサルのように遊び、のちには『スカイキッド』『リブルラブル』『メトロクロス』なんかもそこで遊んだなぁ。
ファミコンがリリースされてからも、やっぱりナムコのゲームのほうがオモロいってんでやっぱり自転車に乗っちゃってましたね。だから、ナムコがファミコンに参入したときは「やったー!!!!」とか言って意味もなく興奮してました。
中学に入ってパソコンゲームにドップリ浸かってからも、気分転換にナムコのアクションで遊んだりして、ぼくとは相性のいいゲームばかりでした。
そしてそれらのゲームは、必ず中村さんがテストプレイをしていたそうです。ぼくがナムコのゲームにあそこまでハマれたのも、中村さんのキビシイ目があったからこそ、だったんですね。
最後に
そんな中村さんが亡くなったということは、日本のゲームの歴史の一区切り。あの頃のワクワクする空気を創りだしたうちのひとりが亡くなったのですから。
ご冥福をお祈りします。そして、数々の素敵なゲーム体験をありがとうございました。