仕事で群馬県の富岡市に行ってたときのこと。ええ、あの富岡製糸場のある富岡市です。
どうにもやる気が起きず、車でグルグルしていたらいつのまにか隣の甘楽(かんら)町に入っていました。ええ、あのこんにゃくパークのある甘楽町です。
そこで、なんとあの織田信雄の墓を発見。ええ、あの信長の次男(または三男)のボンクラの信雄です。信雄は「のぶかつ」とも「のぶお」とも。一般的には「のぶかつ」と読まれいます。
立派でっしゃろ。
しかしなぜ群馬県に織田信雄の墓が?と思った人も多いと思います。ぼくもそうでした。思えば、織田信雄の晩年なんて考えたこともなかったし、注目すらしてませんでしたから。
そこで、なぜこんなところに織田信雄の墓があるのか、まとめておきます。
小幡藩の織田氏
仕事サボって車を走らせていると、「ようこそ城下町小幡」なんてかかれている看板を発見しました。これが発端。
「ん?城下町?ここに城があったのか?小幡?小幡勘兵衛の小幡かしら?」
なんて思ってたら道路が石畳になってたり、なかなかの情緒。「へー」なんてバカ面してなおも走ると「織田公公園」なんてところに出ました。
「織田公?あの織田?ここに?」
またまたクエスチョン。そして、ここまで来て調べてみることにしました。
「小幡藩」でググってみるとありましたありました。
1590年に徳川家康の家臣奥平信昌が小幡周辺の3万石を領したのが小幡藩の興りで、1601年に信昌が美濃加納に移封されると信雄が領し、その後2万石を小幡藩として嫡流信良に分知したようです。以後、7代にわたり小幡を治めましたが、7代信邦が1767年の山県大弐の「明和事件」に連座して蟄居となり、家督を継いだ信浮(のぶちか)が出羽高畠に移封され、織田氏の小幡藩統治は終わりました。
………へえええ。なるほど。
そんな小幡藩の城下町だったところを歩いてみると、武家屋敷が残ってたり信雄が造ったとされる楽山園が残ってたりしてなかなかの風景でした。
そしてその一角に「織田公公園」なんてところがあったのです。
織田公公園
その公園は、織田氏の菩提寺となっている崇福寺の脇にあります。それはキレイに整備されてましたよ。
ズラっとならぶ織田氏7代の墓。一番左の大きいのが信雄です。立派だな!
そして、そのお墓の手前、向かって右側に杭で囲まれているところがあるのがわかるでしょうか。
ここに、柊が植えられています。
本能寺の変後、織田信長の首は日海上人の命で静岡県富士宮市にある西山本門寺に運ばれて埋葬されたとの口伝がありますが、その富士宮市から「第27回織田信長サミット」の際に記念品として寄贈されたものだそうです。
うーん、すごいんだかすごくないんだか分からないけどすごい。
思えば、出羽高畠に移った後も信雄の血は幕末まで残ったわけで、幕末まで続いた織田氏の血筋って他にありましたっけ。
ちなみに、この公園が出来たのは2年前みたいですね。ていうか、町全体が最近「織田推し」を始めたような気配がプンプンですよ。
最後に
それにしても、まさか群馬県で織田信雄の墓と出会うとは思いしませんでした。歴史が好きだと言ったって、この程度のことも知らなかったとは恥ずかしい限りです。逆に言えば、まだまだ日本中でぼくにとっての発見はあるということで、楽しみが増えましたけども。
みなさんも、例えば世界遺産富岡製糸場に行ったりしたときには、ちょっと足を伸ばして城下町小幡も訪ねてみてください。ホントに最近整備を始めたってカンジでキレイですから。織田氏で町おこしでもするつもりなのかしら。