司馬遼太郎さんのエッセイに、『この国のかたち』というのがあります。有名なのでみなさん知ってるでしょうけども。
昔、ぼくはかなり司馬遼太郎という作家に傾倒していて、日本史が好きになったのもそのおかげなのですが、例にもれずこのエッセイが大好きでした。何度も何度も読み返してましたね。
で、Twitterを始めたころちょうど読み返していて、その中からハッとしたりウーンと唸ったりしていたセンテンスをツイートしていたのです。
最近それを読み返す機会があり、せっかくなのでそれをまとめておきます。
『この国のかたち』とは
まず、軽く『この国のかたち』をおさらいしときます。
『この国のかたち』は司馬遼太郎による歴史エッセイです。1986年より『文藝春秋』の巻頭随筆として連載され、1996年に司馬さんが亡くなるまで続きました。
司馬さんの歴史に対する態度、いわゆる「司馬史観」がどのようなエッセンスで出来ているのかが垣間見られて非常に面白い。自身の体験から戦時中の日本は毛嫌いされている向きはあるにせよ、独特の視点で見た日本史をわかりやすく伝えてくれています。
晩年、司馬さんは日本という国に対して非常に好ましく見ているのですが、それゆえに一種の諦観があって、日本の今後を憂いていました。その点も隠すことなく書かれているのも興味深いところです。
単行本としては全6巻となっています。日本人なら、手元に置いておきたいエッセイです。
『この国のかたち』のセンテンスをツイート
で、ぼくには、前述のように『この国のかたち』を読んでいて目に止まった文章をせっせとツイートしていた時期があり、それを読み返したいと思っていたものの、一体いつツイートしたのかまったく覚えておらず探そうにも探せず諦めていたのです。
ところが最近、そのうちのひとつにリツイートをくれた方がいて、それで「ああ、こんなに前だったか!」といつツイートしたのかが発覚、まとめて読み返すことができたのです。
ありがとうございますありがとうございます。
『この国のかたち』目に止まったセンテンスまとめ
で、それらをここにまとめておくことにしました。ぼくのことなので、また今度見返そうと思ったころには「はて?いつくらいにツイートしたんだっけ?」となっているに決まっているので。
始めにことわっておくと、1巻の前半と、2巻が丸々ありません。1巻はおそらく読んでいる途中に「あ、ツイートしよう」と思ったからなんでしょうけども、2巻の分はなんでないんだろう?目に止まった文章がなかったとは思えないので、おそらく忙しいときに読んでいたんでしょう。
いずれ、その辺も埋めて完全版としたいと思います。
それでは、どうぞ。
一
若衆と械闘
- 日本人はつねに緊張している。ときに暗鬱でさえある。理由は、いつもさまざまの公意識を背負っているため、と断定していい。
- それまでの室町の守護・地頭が、行政なしの徴税のみの存在だったのに対し、(北条早雲は)領民の面倒のいっさいを見るという支配の仕方だった。
- 日本は、早雲の"領国制"以来の公意識を踏み台にして、近代国家を、アジアの他の国よりも早い時期につくることができた。
- 日本人はいつも大小の公を背負って緊張している。それに対し、中国人は孫文が不安がったようにつねにリラックスしている。この両国のたたずまいこそアジアの大きな景観ではあるまいか。
藩の変化
- 木戸孝允は明治後、鬱病じみた人になって冴えなくなるが、わかいころはじつにいきいきとして魅力的な人物だった。
- 隊が、のちに中国にも逆輸入され、さらには韓国でも使われていることを思うと、当時の長州状況と思いあわせてささやかな感慨がある。
- 奇兵隊および諸隊の隊士たちは、封建制への奉仕者とはおもっていなかった。漠然たる公の概念を共有する者たちであり、その公を守る使命感が、かれらの士気の根源になっていた。
- かれら(徳川将軍家)は天下は天下のもので、徳川家の私物でないという思想をもっていたからこそ、肩の荷物をおろすようなあっけなさで、一回の評定で大政奉還をしたのである。
土佐の場合
- 薩長土という三藩それぞれの政治的・人間的個性の三様ぶりがなければ、明治維新はああいう形ではおこらなかったにちがいない。
- かれ(坂本竜馬)ののぞみは、海外貿易にあった。そのためには、統一国家の樹立が必要だった。かれにとって革命は、渾身のしごとではなかった。
- (南海道(和歌山・淡路・四国)は)土俗として平等意識がつよく、そのため過剰な敬語が発達しなかった(紀州方言にいたっては敬語がない) 。
- こんにちの日本はいい国だと思うのだが、発想の多様さについては、心もとない。そういう場合、江戸期の多様さを思うと、心づよくなる。
豊臣期の情景
- 日本史のふしぎさは、乱世でかつ中央・地方の政治(将軍と守護)があってないにひとしいといわれた室町時代において、農業生産高が史上空前だったことである。
- 秀吉の天下統一には、革命的な要素が三つあった。ひとつは信長から継承した楽市楽座を全国規模にすること、また大坂に米、材木などの市を立て、日本全国を一つの流通にしたてあげること、三つ目は検地だった。
- 近江四郡の大名になった三成は、豊臣時代を通じてもっともよき民政者だったといっていい。
谷の国
- 谷こそ古日本人にとってめでたき土地だった。
- 開港場(横浜・長崎・神戸)の丘の上の異人館にやがて日本人もならうようになって、丘が高級というイメージに変わってゆき、やがて"ナントカが丘"という造成地広告になってゆく。
- 室町期に出て伊豆を領国化し、戦国大名の嚆矢をなした早雲は、政治の基礎に民政をすえた日本最初の政治家だった。
- 稲作は伝来のときから農業土木がセットになっていた。
- いまなお役にたっている釜無川の龍王堤(俗に信玄堤)は、かれ(武田信玄)の政治感覚を示す代表的なものといっていい。
六朝の余風
- (足利)義政は統治者でありながら、応仁・文明の乱をよそに見、いっさい手をうとうとはしなかった。
- 古代日本にまっさきに入ってきた"中国文明"は、のちの隋・唐よりも、六朝文化だった。これは後世への文化遺伝の因子として決定的だったのではないか。
- 右から左にわたすように(欽明天皇十三年)、この王(百済の聖王)は日本に仏教や経論を送ってきている。
- 私は、日本は明治維新以後、日本の為政者はようやく六朝風を脱したというふうに、本気で考えている。そのことの得失はべつである。
日本と仏教
- 人が死ねば空に帰する。
- (仏教には)墓という思想すらなく、墓そのものが非仏教的なのである。
- 浄土真宗は"本家離れ"(?)してキリスト教に似た救済性をもった。
- 鎌倉というのは、一人の親鸞を生んだだけでも偉大だった。
- 親鸞においては救済をのべつつ、解脱の原理からすこしも踏みはずさないという微妙な、きわめて仏教の本来的態度をとっている。
- 仏教は本来解脱の方法であって、教義というものは存在しない。
日本の君主
- 徳川将軍家も、創業の家康と中興の吉宗と最後の将軍である慶喜の大政奉還行為をのぞいては、おおかた老中まかせで、そのことがかえって泰平に寄与した。
- 薩摩人たちの多くは、自藩の斉彬の非業を見、君主が執政者になってみずから政争の泥の中に入ることが日本の政治文化になじまないことを感じていたにちがいない。
- 伝統的長州藩では、藩主は起きあがり小法師の重心になる鉄片だった。
- 明治憲法が、首相以下の各国務大臣がその分掌において輔弼の責任をもち、しかもそれが最終責任であって、天皇に責任はないとしたことは、日本における伝統をはじめて法の実質にしたものだったろう。
若衆制
- 若衆制文化に関するかぎり、日本列島は、太平洋諸島の文化に属している。
苗字と姓
- 「名田」これこそ鎌倉幕府成立という、日本史を一変させる革命を理解するための鍵言葉(キイワード)といっていい。
- かれら律令の鬼っ子たち(武士)は、自分たちの"一所"(名田)に"命を懸"けつつも、その所有権のあいまいさにたえずふるえていた。
- この時代(平安末〜鎌倉)、その人をよぶのに地名に"の"がつけば、その地の名田のぬしということになっていた。
- 室町以後、苗字に"の"がつかなくなってゆくのは、世々の変遷のあげく、ひとびとの多くが苗字のおこりの名田の地を離れてしまったことによる。
- 熊谷"の"次郎直実も、熊谷が地名であったればこそ、"の"が光彩を放つ。
三
戦国の心
- 江戸時代は、思想史や芸術史の上でじつにおもしろい時代だったが、なにぶん、政治・法制の原理がひたすらな秩序維持であった。
- 自分の意志で主家をやめる場合、当時、"見限る"ということばがつかわれた。家来に選択権があったことになる。
- 戦国末期、七たび牢人せねば一人前の男ではない、といわれたりした。
- 戦国期には、おかしな人が多かった。
ドイツへの傾斜
- その革命(明治の西洋化)は自前であった。どの国のヒモもつかず、いかなる選択も日本自身がした。
- 英国の場合、薩摩藩といったんは局地戦争(一八六三年)をした。が、そのあと双方異様なほど親密になった。双方のしたたかな戦略によるとはいえ、英国側の想い入れのほうがつよかったのではないか。
- ドイツについては、ひいきというよりも、安堵感だったろう。ヨーロッパにもあんな田舎くさい—市民精神の未成熟な—国があったのか、とおどろき、いわばわが身にひきよせて共感した。
- ただ一種類の文化を濃縮注射すれば当然薬物中毒にかかるということである。そういう患者たちに権力をにぎられるとどうなるかは、日本近代史が動物実験のように雄弁に物語っている。
社
- 東アジアの文化は国別で見ると異なるかのように見えつつ、共通の根があるようにおもえる。
室町の世
- 日本史は室町時代から、ゼニの世がはじまった。
七福神
- (七福神の宝船は)めでたくもあり、泥くさくもあり、いかがわしくもある。
- 結論からいうと、七福神はほとんどが異国の神である。
船
- 家康でさえ貿易に熱中したのである。ひとつには秀吉の時代に開発された銀や銅があまるほどあったために、それをつかわざるをえなかったということもある。
- やがて号令される鎖国と、キリシタン禁制、それに参覲交代の制にくわえ、この大船建造の禁止は、幕府をささえる強力な基礎工事用の矢板になった。
秀吉
- 応仁の乱がなければ秀吉の奇跡はありえなかった。
- 自分の城下に全国的な市(米や材木など)を設け、天下をひとつの市にし、成功させたのはみごとといっていい。
- あかるさが、かれ(秀吉)の七難をかくしたから、もし当時、選挙制があっても、ひとびとはかれに投票したに相違ない。
- そういう秀吉が、なぜ"大明征伐"を呼号し、朝鮮国に案内を強要し、したがわぬとあって、ただちに出兵するような無謀なことをしたかとなると、まったくわからない。
- ともかくも、晩年の秀吉の"病気"による禍害は、当時だけでなく、こんにちまで隣邦のうらみとしてつづいているのである。やりきれない思いがする。
岬と山
- 海に突き出た陸地の先端(さき)なら、単にサキとよべばいいところを、ミという美称をつけたあたり、すでにことばとして神そのものをさしている。
- 岬を開発してゴルフ場をつくったり、神体山を削ってリゾート地にしたりすれば、おそらくろくなことがないにちがいない。
華
- 大衆食堂などに入って、軽々に"冷し中華"などというべきでない。
- 中華とは、宇宙唯一の文明ということである。ずいぶんしょった国名だが、むろんつよい屈折があっての呼称である。
- 華が文明であるかぎりは野蛮(夷)が存在せねばならない。具体的に—政治地理的に—いえば、華はまわりを野蛮国にかこまれていてこそ華である。
- 以下は筆者の地声になる。じつは華も礼も虚構にすぎない。
- このような"小華"の世界(李氏朝鮮)からみれば、日本など、えたいが知れない。物知らずにも(?)日本は古くから独立した年号をもってきた。
- 日本の国書の内容も、滑稽なほど"野蛮"で、非礼だった。「日出づる処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」……同格である。
- 鎌倉幕府が成立してからは、日本史は封建制の発達という意味において別個の国になった。とくに十七世紀以後の封建制の精密さは、ヨーロッパ史にも見られない。
- 韓国人がいまも日本のことを倭奴(ウエノム)と蔑称しつづけているのは、一つには"小華"としての伝統的な虚構が深層にあってのことにちがいない。
- 虚構はつねに激情をうむ。
- とくに"華"ということでの優等生になった朝鮮にあっては、もはや虚構のフィルターを通してしか隣国を見られなくなった。
家康以前
- 近世の基本については信長が考え、かつ布石した。
- 本願寺とたたかうことは、その影響下にある各地の国人・ 地侍をたたきつぶすこと—つまり中世をつぶすこと—にあったのである。
- 日本の近世は、三人の異る個性によって完成した。
洋服
- 日本国をひきついだ維新政府の要人たちは、いっさいの事情を知り、よく理解した。欧化政策は、その「事情」がばねになっていた。
「巴里の廃約」
- 幕末における日本の世論は、いわば宇宙から異星が攻めてくるといったような荒誕な気分から発した。荒誕はかえって可燃性のガスを生む。
- 慶喜は、時流に過敏すぎるうえに、複雑だった。
「脱亜論」
- 儒教体制から脱せよ、というのが、「脱亜論」の趣旨といっていい。
- 福沢(諭吉)は文章の平易さを尊んだために、その表現はときにミもフタもない。
- 日本というのは当時から朝鮮のナショナリズムを刺激する存在で、ナショナリズムの前には理非も是非もない。
- 革命をおこした国は倨傲になる。特に革命で得た物差しを他国に輸出したがるという点で、古今に例が多い。
文明の配電盤
- まことに明治初年、西欧文明受容期の日本は一個の内燃機関だった。その配電盤にあたるものが、東京帝国大学(以下、東京大学)で、意識してそのようにつくられた。
- 当時におけるこの大学(東京大学)の諸学をかりに電流とすれば、当初はその電流の役目を"御雇外国人"が果たした。
- 東京大学を通じて全国の各級官公立学校に分配しつづけ、それが構造になっていた。この配電構造のために官公立偏重の風がうまれたのである。
- 文明受容についての明治政府の計画は、大したものだったというほかない。
平城京
- 唐の長安の片鱗を見たければ、唐招提寺にゆけばいい。
- 日本全国に律令という大網を打ち、農地という農地、人間という人間を律令国家がまとめて所有し、統一国家が成立したのである。
- 島国だけに、普遍性へのあこがれがつよいのである。
- 律令制というのは沈黙の社会主義体制だったといっていい。沈黙のというのは、社会主義につきもののやかましさがなかったということである。
- 律令制は、反乱も討伐も演説もデモもなく、しずかに進行した。
平安遷都
- 首都そのものが大寺を置きすてて逃げたのである。
- 首都が奈良をすてて京都にうつったのは、当時としては高度な政治行動だったのである。
東京遷都
- 明治維新のことだが、この成立に最大の功があったのは、徳川慶喜であるといっていい。
- かれ(大久保利通)はこの一書生(じつは前島密)の投書の論旨に服し、(大坂ではなく)江戸をもって首都とするに決めた。
鎌倉
- 鎌倉は、武士の府らしくまことに質素な首都だった。
- 坂東武者が日本人の形成にはたした役割は大きい。
大坂
- 豊臣秀吉の天下構想のひとつは経済の割拠性をうちやぶることにあった。そのために、コメに完全な市場性をもたせた。
- 徳川幕府は、この太閤の商権を過剰なほどに保護した。
- 江戸では下り(上方から江戸へ)の酒がよろこばれ、下らない酒はまずい、とされた。このことからつまらぬコトやモノを"くだらない"(江戸弁)というようになったという説もある。
- 江戸経済の仕組みが、大坂をなりたたせていたのである。
- (富永仲基は)商工業の方法論でもって儒学の古典をあらいなおした。
- 『出定後語』は、仲基が多様な大乗仏典をテキストとして精密に検証した結果、これらの経典は釈迦の言ではなく、後人がそれぞれの時代に創作したものである、とした。
宋学
- 十二世紀の中国の朱子学が、意外なことに、十九世紀の日本の近代革命に功を示したといえる。むろん、半面の罪は、昭和期の軍や左翼勢力の空論好みを生んだことといえるのではないか。
小説の言語
- 近世、小説としての文章語は、元禄前後の大坂の町人層でおこった。
- 元禄(一六八八〜一七〇四)文化は大坂がになった。戯作や浄瑠璃がさかえ、代表的な作家として井原西鶴や近松門左衛門が出た。むろんかれらの作品が文語で表現されたことは、いうまでもない。
- 漱石の文章日本語は社会にとりこまれ、共有されたのである。
甲冑(上)
- 平安朝以後の甲冑は一変し、世界の武具文化から孤立しているほどに特異になる。
- その地を"開発"した豪族が、貴族・社寺に墾田を寄進することで"特例の私有"を合法化し、自分はかげにまわって経済権だけをにぎった。武士の発生であった。
- 潔さの究極の表現が、戦場での死だった。華麗な甲冑は、自分の死を飾るものでもあった。
甲冑(下)
- 所有権という"私"の主張と表裏をなすものが潔さの強調で、その潔さという倫理性が、もう一枚裏打ちされて優美という造形意識になったのである。それが、平安時代の甲冑であった。
- 南北朝時代、足軽が出現し、敵を殺せばよいというリアリズムがふつうになった。その思想の一表現として、槍が登場した。
- 戦国は、発明とデザインにあふれた時代だった。
- 能力という個の顕示が、戦国の兜の造形にあらわれたとみていい。
聖(ひじり)たち
- 仏教にあっては、一切は空である。
- キリスト教と決定的にちがうのは、ゴッドが厳格な父性であるのに対し、阿弥陀は人間の弱さに対して寛容な母性であることである。
- 念仏は呪文ではなく、単に感謝のあいさつである。
- 源信は日本ではじめて詳細に地獄の情景をのべた。
四
馬
- 日本人は馬の去勢を知らなかったのである。
- 馬とともに、馬具いっさいがセットで舶来した。
- この(一ノ谷の合戦の)一一八四年は、若い義経によって戦いが「作戦」になった歴史的な年だった。
- 古代ギリシア時代をのぞけば、十二世紀の義経の「騎兵の集団運用」は、着想そのものが奇蹟というべきだった。
室町の世
- 日本文化の原流が、室町文化にあることに、大方、異論はないにちがいない。
- 足利将軍家は十五代二百三十五年もつづくが、歴代のなかで後世の鑑となるような人はひとりもいない。
士
- 近代は、洋の東西を問わず、商品経済の盛行によってひらかれたようである
- 江戸中期は、アジア史では異常な社会だった。封建制をとりつつも、同時に沸騰した商品経済をあわせもっていた。
わだつみ
- 江戸時代になって、古代の漁は、はじめて産業として成立したといっていい。
庭
- 明治以前の日本人は、庭園が好きであった。
松
- 日本は、松のくにである。
- 海風につよいために、日本では古来、海浜に松原をつくって防風林とした。
- 松は岩上にさえ生えるほどに栄養ぎらいなのである。
- 木ノ実も多く、海浜には魚介が多く、しかも東日本の諸川にはサケ・マスの遡上があるから、日本は世界一の採集の天国だったといわれている。
招魂
- 封建の武士が世襲する禄は将来の戦死をふくむ戦場の働きを見越して主君が与えるいわば前渡金であって、家臣としては武功をたてるか、討死することで賃借対照表がゼロになる。
- 九段の招魂社は、日本における近代国家の出発点だったといえる。
- 大村(益次郎)は、農民の出でもあって、諸藩の士がもつ藩意識には鈍感で、むしろ新国家の敵と心得ていた。
- 戦後の新憲法で、九段の招魂社の後身である靖国神社は、一宗教の"私祀"のようなあつかいをうけている。大村の素志、憐むべしといわねばならない。
別国
- 日本史のなかに連続してきた諸政権は、大づかみな印象としては、国民や他国のひとびとに対しておだやかで柔和だった。
- 昭和五、六年ごろから敗戦までの十数年間の"日本"は、別国の観があり、自国を亡ぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた。
- (日本は)昭和初年から十数年、みずからを虎のように思い、愛国を咆哮し、足もとを掘りくずして亡国の結果をみた。
- "日本史的日本"を別国に変えてしまった魔法の杖は、統帥権にあった。
- 事変というのは宣戦布告のない戦争行為もしくは状態をいう。
- "事変"を軍部が統帥権的謀略によってつくりだすことで日本国を支配しようとしたことについては、陸軍内部に、思想的合意の文書というべき機密文書が存在した。
統帥権(一)
- 昭和の軍閥のはなしである。この存在とその奇異な活動は日本史上の非遺伝的な存在だと私は感じてきた。
- (江戸期の日本は)のんきな国で、外敵をふせぐための国防施設はなにひとつもたなかった。平和主義ということでいえば、世界史上の奇観であった。
- どの国でもそうだが、歴史がかわる胎動期にはまず思想家があらわれ、その多くは非業に死ぬ。
統帥権(二)
- このこと(奇兵隊の成立)によって、一藩の内部にかぎられたことながら、三百年の武士の世はおわった。
- この藩(長州藩)では、藩内の富商も農民もみな挙藩防衛を支持した。いわば明治維新の前に、小さな国民国家ができていたといっていい。
統帥権(三)
- 幼少の天皇(明治天皇)を擁する新政府は兵をもたなかった。世界史上、軍隊をもたない革命政権は、他に例がない。
統帥権(四)
- 明治二十年以後、明治時代いっぱいは、統帥権が他の国家機能(政府や議会)から超越するなどという魔術的解釈は存在しなかった。
- 満州事変、日中事変、ノモンハン事変など、すべて統帥権の発動であり、首相以下はあとで知っておどろくだけの滑稽な存在になった。
- 敗戦まで日本は"統帥権"国家になった。こんなばかな時代は、ながい日本史にはない。
うるし
- 普通名詞のジャパンが漆器の意味であることは、すでに十七世紀初頭のオランダで成立していたらしい。
- 稲作が幸せだったかどうか疑問をもちたくなるほどに縄文時代のくらしはよかったらしいのである。
- 明治・大正の化学者たちが漆を分析し、その化学的主成分を抽出し、ウルシオールと名づけた。
白石の父
- (新井白石の)身は封建時代にありつつも、観察眼は、近代人だったというほかない。
- (新井白石は)訊問しつつシドッチから世界地理その他をまなんだ。
- 武士の多くは、後世からみれば可愛らしいほどに些末な名誉を過重に感じておのれをささえていた。
近代以前の自伝
- 文学は、閑文字である。
- 儒教から解放された和文が幸いして、日本は十、十一世紀という古い時代、東アジアにおいてひとり"閑文字"の諸作品をのこすことになった。
李朝と明治維新
- 李氏朝鮮(以下、李朝)の誇りは、儒教という文明主義の国であることだった。
- 李朝儒教は、儒教を生みだした中国よりも形式に厳格で、いわば優等生の体制と思想だった。
- (李朝は)北京の清国皇帝をもって地上を支配する唯一人とした。むろん本気ではなく、多分に架空であったが、架空こそ礼の本質でなくもない。
長崎
- 鎖国は、かえって海外への知的関心をかきたてた。
- 西洋医学の導入面で長崎が果たした功は、はかり知れない。
日本人の二十世紀
- 明治・大正のインテリが軍事を別世界のことだと思い込んできたのが、昭和になって軍部の独走という非リアリズムを許したのだと思います。
五
神道(一)
- 神道に、教祖も教義もない。
- 畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。
- 古神道には、神から現世の利をねだるという現世利益の卑しさはなかった。
- 自然をもって神々としてきた日本人が、仏教が渡来したとき、従来の神々が淡白過ぎ、迫力に欠けることを思わざるをえなかった。
神道(二)
- 大仏造立のことが計画されたとき、政府は行基の人気を利用しようとし、これを招いた。
神道(三)
- 元来、神道は、神名や神体があろうがなかろうが、成立する。
神道(四)
- (伊勢神宮の)内宮・外宮の社殿建築をみても、大陸からの影響はない。宇宙のしんを感じさせるほどに質朴簡素である。
神道(六)
- 幸いなことに日本は世界有数の記録の国である。
- 八幡神の歴史できわだっていたのは、頼義がこの神をもって氏神としたことであった。
- 鎌倉時代から日本国の国民史がはじまったとさえいえそうである。
神道(七)
- 神々は論じない。
- 日本史は中世になって多弁になる。さまざまな階層の人が、物語や随筆や仏教論などを書くようになった。
- (平田)篤胤は、国学を一挙に宗教に傾斜させた。神道に多量の言語を与えたのである。
会津
- (会津藩は)親藩であったから、外様藩のように幕閣の機嫌をとったりする必要がなかった。従って政略の能力を欠き、むしろそれを卑しむところもあった。
- 新選組は、治安活動の爪牙となり、倒幕家たちのうらみを会津藩に集中させることになった。
- 明治後も、会津人や会津地方は割りを食うことが多かった。
大名と土地
- 城は、漠然とした観念ながら、公のものという思想が確立していたのにちがいない。
- 大名たるものは、その領地にあって、農地や市街地に一坪の土地も所有していなかった。大名はひろく領内の支配権をもっていただけだった。
- 豊臣時代以来、大名が持ち、その家来たちが執行したのは、領内の支配権(行政権)という、いわば義務だけだったというのは、日本的な公の意識の一源流として考えていい。
- 江戸時代の土地の制度が、日本の近代への移行を容易にしたことはたしかである。
鉄(一)
- 鉄は、スキやクワに使われることによって、社会の容量を大きくしたのである。
鉄(二)
- 鉄は、日本の場合、弥生文化(水稲農耕の文化)のセットの一部として、海のかなたからきた。
- 木が鉄を生むといっていいほどに、砂鉄製錬は樹木を食い、古代としては大規模な自然破壊をともなった。しかし日本の森林には復元力があった。
室町の世
- 応仁ノ乱は、室町体制という芝居の書割のようにそらぞらしい体制が土崩する自然の革命だったといえなくはない。
宋学(一)
- (イデオロギーとは)これをもって、地上の諸存在を善か悪かに峻別し、検断する。
- 朱子学に対し、これを"虚学"あるいは空論とみる学派が出てきたのは、江戸時代の思想史のかがやきといえる。
- 日本が孤島にあるために、海のかなたから思想がやってくる場合、都合よく要約され、思わぬ爆発力をもつ場合がある。
宋学(二)
- 蒙古襲来のときの執権北条時宗の心構えと指揮のやり方こそ、政治の中の禅の真骨頂だったといっていい。
宋学(三)
- 朱子学が日本史上の正邪をきめるまでになったのは、水戸徳川家の当主の光圀(一六二八〜一七〇〇)の修史事業に負うところが大きい。
宋学(四)
- 楠木正成は、後世のイデオロギーのなかで浮沈した。
看羊録(一)
- 朝鮮侵入は、秀吉の妄想によるとしか言いようがない。
藤原惺窩
- 日本史上、学問(儒学)の専業者は、藤原惺窩(一五六一〜一六一九)が最初というべきである。
- (日本人は)二十世紀にいたるまで思想は海外にあると思いこむ弊があり、人によっては、その思想を生んだ国まで理想化した。
- 惺窩の異常な誇りの高さは、病気のようなものだった。
不定形の江戸学問
- のちに漢という大帝国をおこす劉邦は、本来野人だった。
- 懐徳堂の学派は、初期"鵺派"といわれるほどに不定形だった。
人間の魅力
- 戦後、生きて帰って、五十年にもなるというのも、身にこたえますな。
- 要は昭和の戦争時代は日本ではなかった—幾分の苛立ちと理不尽さを込めて—私はそう感じつづけてきました。
- せめて日本人が、基本的な日本人像をきっちり持ってくれていると、ありがたい
- むろん薩長連合論というのは竜馬の独創ではありません。当時にあって倒幕をなすにはそれしか手がないとはすでに天下周知の論でした。ただし、机上の空論でした。
- (吉田松陰は)大志を抱いたがために、現実とは調和できず、ことごとくが失敗の連続でした。失敗するために懸命の努力をしている、というおかしみさえある人でした。
- ニシンは和語ではカドです。つまりカズノコというように。ニシンはアイヌ語です。アイヌ語でいうとき、ニシンが第一級の木綿栽培用の金肥という商品名になるのです。
- 嘉兵衛は、みずからに国家を代表する責任を与えました。
六
歴史の中の海軍(一)
- 巨艦群によって新文明を誇示しつつ、ペリーは傲然としていた。当然ながら、文明の使者として、善事をなしているつもりだった。
歴史の中の海軍(二)
- (日本は)遠方に植民地をもつことなく、ただ自国を守るためという目的のみで、海軍を育成した。
歴史の中の海軍(三)
- 軍隊教育というのは、それを教える側が、生徒に対し、生活の根底から軍隊文化を圧倒的に押しつける以外に成立しない。
歴史の中の海軍(四)
- 明治日本の危機意識は、つねにその中心に朝鮮の帰趨があった。このことはさまざまな意味で、のちの日韓(朝)関係の不幸をつくる。
歴史の中の海軍(五)
- 日本海軍は、世界史のなかの海軍がそうであったようなものではなかった。つまり侵略用でもなく、植民地保持用でもなかった。
声明(しょうみょう)と木遣(きやり)と演歌
- 日本文化のおもしろみのひとつは、過去からの連続性が濃厚なことである。その上、貯蔵能力も高い。
言語についての感想(一)
- 商業は、人間の生活をいやおうなしにひろげてしまう。
言語についての感想(三)
- 民族というのは、煮つめてしまえば、共有するのは言語しかない。
言語についての感想(七)
- 子規には、どこかひとをあかるくさせるとびきり上質な幼稚さがある。
コラージュの街
- 維新は士族だけを失業させたわけでなく、大坂を一時的に大陥没させた。
原形について
- あたりまえのことだが、他国については、自国の尺度で見ればすべてまちがう。
祖父・父・学校
- 学校が、どうにもいやで、就学中、もし来世というものがあるなら、虫かなにかにうまれたほうがいい、と何度おもったか知れない。
最後に
いかがでしょう。みなさんの頭に引っかかるセンテンスはあったでしょうか。
もしあって『この国のかたち』をまだ読んでないというのなら、是非読んでみてください。日本が、日本人がいかに誇り高くそして危ういかがわかるかもしれません。