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『紫式部日記』でめっちゃ清少納言をディスる紫式部

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紫式部といえば『源氏物語』を著したことで超絶有名ですが、他にも色々書いていて、その中には『紫式部日記』なるものもあります。

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紫式部が書いた日記であるからには、彼女の普段の気持ちや考えが出ているんでしょうなぁ、と若いときに読んだことがあります。

そしたら、何だか清少納言のことをかなりボロカスに書いてあってビックリしたあの日。

『紫式部日記』とは

『紫式部日記』は紫式部によって書かれたとされている日記で、1008年秋から1010年正月まで、宮中の様子を中心に書かれています。

中宮彰子の出産が迫った1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、史料的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部・赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。また、彰子の実父である藤原道長や、同母弟である藤原頼通や藤原教通などの公卿についての消息も多く含む。

引用元:紫式部日記 - Wikipedia

『紫式部日記』は何気なく書かれた日記ではありますが、当時の宮中の様子を当事者の目線でみることができるので、後世からしたら上等な史料になっています。

清少納言をディスる紫式部

さて、この『紫式部日記』の中で、『枕草子』で有名なあの清少納言について書かれた部分があるのですが、これがおもいっきり清少納言をこき下ろしていて面白いので是非知っておいていただきたい。

『紫式部日記』の中の清少納言

原文はこんなカンジです。

清少納言こそ、したり顏にいみじう侍りける人。さばかり賢しだち、眞字書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬこと多かり。かく人に異ならんと思ひ好める人は、必ず見おとりし、行く末うたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすゝみ、をかしきことも見過ぐさぬ程に、おのづからさるまじく、あだなる様にもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らん。

古文に強い人は、もうこれを読んだだけで「うわー」ってなるでしょう。

 

訳してみた

清少納言は、ホンマに得意顔で偉そうにしとる人や。あんなに賢こそうにして漢字を書き散らしとるその程度も、よう見たらまだまだイケてへんところが多いわ。こんなふうに人とはちゃうねんと思いたがる人は必ずよう見えへんし、先行きは悪うなってまうばっかりやから、風流ぶってばっかの人は、ひどく無風流でつまらんときでもしみじみと感動してるようにふるまい、また趣深いことを見逃さないようにしとるうちに、自然とそうあったらアカン誠実やない態度にもなるねん。そんな誠実やない態度が身についちゃった人の将来が、どうして良うなる言えんねん。

なぜ紫式部は清少納言をこき下ろしたのか

なかなか辛辣な言葉で清少納言をこき下ろしている紫式部ですが、一体なんでこんな言葉になってしまったのでしょう。

そこには『枕草子』の存在があります。

『枕草子』は清少納言が宮仕えをしていた7年間が、華やかに風流に描かれています。そして、その中には漢詩を書いて周囲に褒められたという、清少納言自身の自慢話もありました。清少納言はそれくらいあっけらかんとして社交的な性格だったんです。

それが(おそらく)紫式部には気に食わなかった。

『紫式部日記』を読めばわかりますが、紫式部は清少納言と正反対と言っていいくらいの内気な性格だったようです。そんな紫式部にとって、キラキラした清少納言は嫉妬の対象でしかなかったんでしょう。

しかし、紫式部が宮仕えを始めたのは清少納言が宮廷を辞してから6年後ですから、2人は会ったこともないんですけどね。でも、紫式部が出仕したときにもキラキラした『枕草子』はまだまだみんなに読まれるベストセラーでしたから、それで「なんやムカつくわー」ってひとりで日記にシコシコと悪口を書いていたわけです。

夫の悪口を言われた?

今回、これを書くにあたって色々調べているときに、面白いことがわかりました。

『日本の白歴史』というブログの、「紫式部と清少納言は仲が悪い?紫式部日記の清少納言評と二人の関係」という記事によると、『枕草子』に、藤原宣孝という人物に書かれた部分があります。この人は、紫式部の夫となる人です。

後に、紫式部の夫となる藤原宣孝と言う人物の服装を『あわれなるもの』という章段で語っています。

宣孝は神社に参拝する時、悪趣味でド派手な服装に身を包み、すれ違う人が二度見するほどであったと・・。

ふむ、紫式部は、もしかしたら「清少納言が過去に我が夫をバカにしたことがある」と思っていたのかもしれません。

だから「あのクソ女~我が夫を~コノヤロコノヤロ」とか言いながら日記に書いていたのかもしれませんね。

最後に

関西風に訳してサックリ書いて終わりにしようと思ったのに、調べてるうちに面白くなってきて色々書いてしまいました。

みなさんも、不用意に日記に人の悪口を書いていたら1000年後に誰かに読まれて「悪口を日記に書いて、暗いやっちゃな~」って思われることになるかもしれないので、悪口もほどほどに。