仕事で茨城県つくば市の小田に行ったときに「あれ、そういえば小田城ってこの辺なのかな。行ってみようかな」とおもってGoogleマップ開いたらやっぱり近くだったので行ってきたんですよ。
で、この小田城を本拠地にしてたのが小田氏で、その15代当主の小田氏治(おだ・うじはる)ってやつが笑えるほど戦争負けまくりのポンコツなのでちょっと紹介したいなーなんて思いまして、書きます。
あ、「ポンコツ」という言葉について、こちらもどうぞ(読んだら戻ってきてくださいタノム)。
小田城に行ってきた
小田城とは
小田城は国の指定遺跡で、つくば市も「保存管理計画」なんてのを打ち出して発掘調査もした由緒あるお城です。
鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城であり、その始まりは小田氏の祖八田知家が文治元年(1185年)に常陸守護に任命されて当地に移って居館を構えたことによると云われる。
その後、南北朝期には、当主小田治久が南朝方に属し、小田城は常陸南部における南朝方の拠点となり、北畠親房や春日顕国なども入城している。
引用元:小田城 - Wikipedia
北畠親房も来たなんてすごい。
現在は発掘調査も一段落して「小田城跡歴史ひろば」として公開されています。
小田城跡に行ってきた
で、ぼくはその「小田城跡歴史ひろば」を訪れたわけですが、こんなカンジでした。
広いでしょ?そして何にもない。
昔はここにいろいろ建ってたんだろうなぁ、としみじみと思ったもんです。
しかし、背中を小田山に守られてるとはいえ、こんな平城でよく守れたもんだなぁなんて思いません?
ええ、あんまり守れてないんです。特に15代当主・小田氏治のときには。
小田氏治
小田城跡のちかくの交差点に、こんなのがありました。
こんなのがあるのを見ると、小田氏は地元ではいまだに愛されてるんでしょうねぇ。うんうん、いいことです必要なことです。
で、この系譜の一番右下に小田氏15代当主の氏治の名前が見えます。そうです、小田氏治は小田氏の最後の当主なのです。つまり、氏治をもって小田氏は終焉を迎えたのです。
氏治がポンコツだったゆえに。
小田氏治の不死鳥伝説
小田氏治は織田信長と同世代で、小田氏自体もなかなかの名門です。氏治も血筋的には室町幕府の12代将軍・義晴の従弟ですし。
しかし、氏治が小田氏を継いだときはちょうど川越夜戦で負けたほうについちゃって北条を怒らせたあとの落ち目のときで、氏治は小田氏の勢力回復及び拡大の戦いに専念することになります。
しかし、氏治は弱かった!
それゆえに氏治は何度も小田城を奪われます。しかし、そのたびに奪い返して「常陸の不死鳥」とも呼ばれなんだか妙な人気がありますね。
小田氏治の華麗なる戦歴
1555年、ライバル結城家にケンカをふっかけたものの家臣の裏切りに会い力を削がれ、北条と結んで攻めてきた結城政勝に小田城を奪われます。その後、北条が常陸進出のため佐竹氏を攻める関係で北条から許され、その勢いで小田城を奪い返しました。
1557年、佐竹義昭が下妻城主・多賀谷政経とともに小田氏の城海老ヶ島城に攻めてきた際に逆に下妻城に攻めて出ましたが小田城を奪われ、土浦城に逃れますがその後、土浦城主で小田氏配下の菅谷政貞が小田城を奪い返します。
1559年、宿敵結城政勝が死んだことに乗じ氏治は結城城を攻めます。しかし返り討ちにあい持ち城の北条城と海老ヶ島城を奪われてしまいます。
1561年、上杉謙信に従って北条の小田原城攻めに参加するも、翌1562年に氏治は北条氏康の誘いに乗って北条方につきますが、1564年、怒った謙信に小田城をソッコーで攻め取られます。
1565年に佐竹義昭が死んだとき、どさくさにまぎれて小田城を奪還。しかし1566年、またも謙信がやってきて小田城を奪取。このあと氏治はあきらめずになんと武田信玄に援助を乞うています。それがどうなったかわかりませんが、結局氏治は「城壁を修復しない」という条件で謙信に降伏し、小田城を返してもらってます。
1573年元旦、大晦日の連歌会明けで油断していたところに佐竹配下の太田資正に攻められ小田城を取られるもすぐに奪還、しかしこれまたすぐに奪われました。そしてこのあと氏治が小田城を奪還した記録はありません。なんてこった!
その後、氏治は佐竹とずっとケンカしていたわけですが、秀吉から小田原城攻めへの参加要請が来た際もケンカに夢中で秀吉を怒らせちゃって領土没収されてしまいました。
なんだそれ!
愛すべきポンコツ
いったい、小田城を何回奪われて何回奪い返したのか!どんだけ戦ヘタやねん!
小田氏治の人生は小田城を守って負けて攻めて取って守って負けて…の繰り返しでした。
つまりは、守るのがヘタなんだなぁ…。でも、この城跡をみると守るのは難しかったんでしょうけど。
しかし、普通なら諦めたり滅亡したりしたところをしぶとく生き残り、しかもちゃんと奪い返してるのはすごい。「殿様はきっと帰ってきてくれる」と領民から人気があったのかもしれませんね。小田城を獲った連中が小田城を維持できなかったのは、その守りにくさの他に、領民を手なづけることができなかったこともあるのかもしれません。
さらに、これだけ負けまくっても配下が離れなかったのもすごい(何人かはいるけど)。「殿は戦争ヘタすぎてほっとけない」とか思われてたんでしょうか。
晩年、氏治は娘が側室となっていた結城秀康の客分として過ごしました。代々の宿敵だった結城家にヒョロッと入り込めるとは、やはり愛される人物だったのかもしれません。ただのポンコツじゃないんだ!
最後に
1602年に佐竹氏の秋田転封にともない小田城は廃城となったのですが、小田氏治も同じときに亡くなっています。
最後まで、小田城と運命をともにしたってわけですね。
うーむ。劇的。
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